「ブルースの女王」という称号の正体

 お気に入り曲を収録した前述のCDですが、自らの代表曲であり和製ブルースの傑作『別れのブルース』(昭和12年、曲・服部良一)も『雨のブルース』(同13年、曲・服部良一)も、選ばれていません。

 背景には、本来の米国産ブルースというものが虐げられていた黒人たちのものであり、彼らが自らの気持ちを彼ら自身で言葉にし、メロディーをつけて声に出したものが本当のブルースであり、ヒットさせるために日本国内で創作されたものとは似て非なるものであることを、そして自分が流行歌の世界で「ブルースの女王」と呼ばれることのいかがわしさを淡谷は知っていたのです。

「ブルースの女王」と称される前、淡谷は本来のブルース、米国産『セントルイス・ブルース』を東京劇場の舞台で歌唱しています。大ヒット曲『別れのブルース』の発売2年前、昭和10年のことでした。

 ちなみに、笠置シヅ子はその5年後の昭和15年、服部良一の編曲、大町竜夫の日本語詞で『セントルイス・ブルース』を歌っています。

 ジャズに没頭しつつも日本人の心情を理解している服部良一が、見事に換骨奪胎して誕生させた「和製ブルースの世界」。

 その後、淡谷の『東京ブルース』(詞・西条八十、曲・服部良一)、ディック・ミネの『上海ブルース』、渡辺はま子の『広東ブルース』など「地名+ブルース」もののヒット曲が登場しますが、戦後の昭和40年代初めにブームとなった『柳ケ瀬ブルース』『新宿ブルース』『伊勢佐木町ブルース』『長崎ブルース』などの短調系ご当地ソングの源流も元を正せば、淡谷のり子に行き着くのかもしれません。

(参考文献)
『別れのブルース』(吉武輝子著、小学館)
『ブルースのこころ』(淡谷のり子著、ほるぷ)
『一に愛嬌二に気転』(淡谷のり子著、ごま書房)

(編集協力:春燈社 小西眞由美)