悔やんでも悔やみきれないことだろう。だがもちろんご両親に落ち度はない。にもかかわらず自分たちは「まぬけ」だったと考えてしまうところに、このような事件のどうにもならない痛ましさがある。

 紗菜さんを交えて家族でどうするかを話し合ったときに、一度は「ボディガード」をつけたらどうかということを考えたようだ。

 だが、そのことでかえって男を刺激して逆上させてしまっては元も子もない。男のことも考えて、なるべく穏便な方法をとることにしたのである。

 しかし「甘かった」。「犯人にわかってもらおうなんて無理なことだったのにそれをわかっていなかった」「彼の人生のことを何故考えたのだろう 逮捕されたら可哀想だなんて何故思ってしまったのだろう」

 後悔がかぎりない。

 最後にこのように結んでいる。「気持ちの整理がつかず悲しみに暮れています」「どうかそっとしておいてください お願いします」これだけがほんとうの願いだ。

やることは傍若無人の撮り鉄とおなじ

 それにしても、ご両親はただ悲しいだけで「そっとしておいて」もらいたいだけのはずなのに、日本の社会では、いったいいつの頃から犯罪被害者の遺族がこのような心情文をマスコミに発表するようになったのか。

 いうまでもなく、以前は(いまでも)マスコミのバカ野郎たちが入れ代わり立ち代わり、被害者の家に詰めかけ、ばかなことに「いまのお気持ちは?」とか「なにか一言」と、コメントを取るまでは帰らなかったからである。近所迷惑ではあるし、家族は無理にコメントを出すようになったのだ。

 一時はそれが報道被害の一部にあたるということで、自粛もなされたようだが、いまや元の木阿弥である。名前こそジャーナリストだとか報道記者だなどと立派だが、やっていることといったら、他人の迷惑などより、我欲がはるかにまさる傍若無人の撮り鉄とおなじである。

 ストーカーよりも、より実態がわかりにくいケースがある。DVや児童虐待やいじめやSNSによる誹謗中傷である。これらの場合は、ストーカー問題より警察の民事不介入の度合いが強い。

 それぞれにストーカー規制法やDV防止法、児童虐待防止法があり、いじめ防止対策推進法も施行されている。しかしいずれなまぬるく、児童虐待も学校でのいじめもまったくなくなっていない。いじめはさらにたちがわるい。いまだに自殺者が多い。