ロシアに赴任したてのころ、モスクワ大学の近くのマンションの一室を借りていたのだが、別の部屋に引っ越すことを告げたら、家主の女性から最後の月の家賃を払えと言われた。最後の月の家賃は入居時に払っていた敷金を当てるという約束だったと言うと、敷金は部屋を出るときに返却するということだった。

 しかし、案の定というべきか、部屋を出る日になって、返さないと言い出したのである。約束が違うではないかと食い下がったが、一度渡したお金は絶対に返さない。

 いくら約束を思い出させようとしてもあれこれ言い立てて全く取り合ってくれない。相手の手に握らせてしまえば、それを取り返すには力ずくで取るしかない状況になった。

 もちろんそんなことはできない。私はただ、決して物理的に相手に現物を握られるような状況に陥ってはならないのだという教訓のみをかろうじて得た。

 ロシア人は「交渉」という名の「ケンカ」が上手である。交渉もケンカも、いざこざを解決するためか、何かを分け合う状況にあるときに使われる手段である。平和的(非暴力的)であるか、暴力的であるかの違いである。交渉は非暴力的な手段であるが、勝つためのやり方はよく似ている。

ロシアの眼から見た日本 国防の条件を問いなおす』(亀山陽司、NHK出版新書)