晩年の牧野富太郎(『牧野富太郎の植物愛』(朝日新書)より)

 朝の連続ドラマ「らんまん」のモデルになった日本を代表する植物学者、牧野富太郎。小学校中退という学歴にもかかわらず独学で植物学を究め、94歳で没するまで植物と学問を愛し続けた偉人である。

 牧野富太郎といえば、植物学者としての富太郎の名を不滅のものにした『牧野日本植物図鑑』が有名である。この植物図鑑が生まれた経緯とは。

(大場 秀章:東京大学名誉教授)

(*)本稿は『牧野富太郎の植物愛』(朝日新書)の一部を抜粋・再編集したものです。

東京大学を辞職する

 音楽家にとって耳は命だ。それと同じように植物学者にとって目は命なのである。70歳を過ぎた頃、富太郎は自分の植物を見る目はもう深まらないと思うことが多くなり、現役の植物学者を引退する機が訪れていることを自覚した。幸い池長孟(※)の支援のお陰で、標本の散逸も免れそうだった。

※池長孟…経済的に厳しい状況に陥った牧野富太郎に援助を申し出、富太郎が集めた植物標本の売却を防いだ人物

 昭和14(1939)年、富太郎は東京大学を辞めた。77歳だった。

 教育公務員である東京大学の教員には、富太郎没後の昭和60(1985)年まで定年制は導入されていなかった。そのため、勧奨による退職が行われていた。

 植物学教室では、初代教授の矢田部良吉は在職途中の明治24(1891)年に非職を命ぜられ39歳で教室を去ったが、続く松村教授は大正11(1922)年に老齢の故を以て自ら教授の職を辞した。65歳だった。その後は同年に早田文藏助教授が継ぐが、昭和9(1934)年に59歳で病没し、後継には中井猛之進教授が就いた。

 その後も「申し合わせ」と称する勧奨退職は行われている。一例をあげれば、植物学教室の発展に尽力した柴田桂太教授は62歳になった昭和13 (1938)年3月に、この申し合わせに従い退職(依願免官)した。

 77歳になった富太郎に大学が辞職を乞うたことを、巷では「大学が追い出しを図った」などとする記事があるようだ。しかし、それはない。現に大学が辞職を乞うたとしても、年齢からしてそれを非礼とは一概にいえないだろう。

 今日でも多くの大学で65歳が定年であることを考えれば、70歳もかなり過ぎた富太郎が、後進に道を譲るために退職を勧められても怒る部類のことではないといってよい。むしろ遅すぎるという意見もあるだろう。

 講師としての処遇も富太郎の学歴からしたら、納得できないものでもない。同情を寄せる人たちの気持ちをうれしく思ったが、富太郎は辞職の申し出を受け入れた。

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