牧野富太郎記念館展示館(写真:663highland, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons)

 朝の連続ドラマ「らんまん」のモデルになった日本を代表する植物学者、牧野富太郎。小学校中退という学歴にもかかわらず独学で植物学を究め、日本の植物学に燦然と輝く『牧野日本植物図鑑』を世に出した。94歳で没するまで、植物と学問を愛し続けた偉人である。

 牧野富太郎は「日本植物学の父」と称されているが、具体的にどのような実績を上げたのだろうか。

(大場 秀章:東京大学名誉教授)

(*)本稿は『牧野富太郎の植物愛』(朝日新書)の一部を抜粋・再編集したものです。

多様性の解明を究める

 生き物である生物(せいぶつ)を研究する生物学には、大きく分けて2つの潮流がある。ひとつは生命現象や生物すべてに共通するしくみや営みを解き明かし、“生物とは?”あるいは“そのしくみとは何ぞや?”という問いに答えようとするもの。もうひとつは多様な生物を克明に分析し、体系的な分類さらには地理的な分布を調べ、最終的には多様な生物の相互関係や進化の道筋を探ろうとするものである。

 前者は広く植物に共通する「普遍性」を、後者はひとくちに植物といっても多岐にわたる「多様性」の解明を目指すものだといってもいい。また前者は、物理学や化学など他の自然科学分野と方法論上の違いも少なく、それらと共通の土俵において研究が発展した。やがて大学など高等教育研究での一大潮流となり今日に至る。

 富太郎の植物への関心は後者、すなわち「多様性の解明」であり、その源流は本草学にあった。本草学とは当初、薬の本(もと)になる草とその用途についての研究だったが、中国からこの学問を移入した江戸期に守備範囲が大きく広がり、植物や動物の多様性を追究する「博物学」の萌芽母体にもなった。

 本草学を学ぶ者は多岐にわたった。江戸と名古屋を中心に、薬効にこだわることなく植物を、さらには自然を愛好する大名や武士、町人などが、身分の上下に関係なく本草家の周囲に集った。今の言葉でいえば、多くの「博物愛好家」たちが日本各地で植物や動物を実地で調べ、その多様さの解明に大きな貢献を為したのだ。

 ゆえに日本では、学術分野として本質的に異なる本草学と植物学の境界が曖昧になった。江戸時代後期、薬草に関心を抱く本草家の多くは、手にした植物が薬になるかならないかだけでなく、近似する種との区別や類似性といった分類学の領域にも自ずと関心を広げていった。富太郎自身もそのひとり、つまり本草学に興味を持ち続けていた植物学者といえるだろう。

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