(作家・ジャーナリスト:青沼 陽一郎)
安倍晋三元首相を銃撃して殺害した山上徹也容疑者(42)が、殺人と銃刀法違反の罪で13日に起訴された。
事件は、昨年7月に奈良市内で参議院選挙の応援演説中だった安倍元首相を手製の銃で背後から襲撃したもので、民主主義の根幹を揺るがす衝撃的なものだった。
ところが、逮捕された山上容疑者は、母親が多額の献金をして家庭が崩壊した「統一教会」(現・世界平和統一家庭連合)に恨みを持ち、教団とつながりのある安倍元首相を襲った、と供述したことから、たちまち統一教会に問題の主眼が置き換わっていった。
裁判ですべてが明らかに、は幻想
山上容疑者にしてみれば、犯行は政治信条にかかわるものではなく、むしろ個人の不遇と、それに伴う欲求不満や孤立からくる事件であって、どちらかといえば通り魔に近い。それでも、犯行態様と結果からすれば、政治テロと変わらない。まして、人を殺していいはずもない。
にもかかわらず、山上容疑者の減刑を求めるインターネット署名が1万1127人分も集まったり、山上容疑者に届いた支援金が数百万円にも達したりするなど、同情もあとを絶たない。奇しくも、防衛力と日米同盟を強固にして、世界に民主主義を堅持しようとする転換点にある国内のこととも思えない。むしろ、中国の「愛国無罪」に等しい状況だ。
検察は昨年7月に送検された直後から今月10日まで鑑定留置によって、精神鑑定を行ってきた。刑事責任能力はあると判断した。満を持しての起訴だ。
いずれにせよ、これでいよいよ真相解明の場が法廷に移る。裁判ですべてが明らかになる――そう考えたとしたら、大きな間違いだ。起訴直後には、そう書き立てて煽るメディアも散見したが、そうはならない。