(作家・ジャーナリスト:青沼 陽一郎)
12月14日は赤穂浪士四十七士が吉良上野介の屋敷に討ち入った日だ。
といったところで、いわゆるZ世代のほとんどは『忠臣蔵』という言葉すら知らないようだ。今年の正月にたまたま観ていたテレビ番組で、渋谷を歩く10代の若者にアンケートを取ったところ、『忠臣蔵』を知っていたのはわずか1%だったと知って驚かされた。因みに、次に認知度の薄かったものが「カール・ルイス」の5%、次いで7%の「PHS」だった。もっとも、調査がどれほど信用に値するものかも定かではないが、それでも個人の感覚として、それはそれで理解できる。
赤穂浪士たちも口にしていた牛肉
『忠臣蔵』として語られるこの史実は、元禄14年3月14日(1701年4月21日)に江戸城内の松の廊下で、赤穂藩主の浅野内匠頭が、高家の吉良上野介に斬りかかったことにはじまる。内匠頭は即日切腹。藩はお取り潰し。だが、上野介には咎めがなかった。
知らせを受けた国元の赤穂では、筆頭家老の大石内蔵助を中心に籠城や切腹など対応が協議されるが、幕府の意向に従って城を明け渡す。赤穂藩士たちは浪人となって、内匠頭の弟の浅野大学によるお家再興に望みを託すが、それも叶わなくなったところで、内蔵助をはじめ四十七士が江戸の吉良邸に討ち入り、上野介の首をあげて主君の仇を討ち、本懐を遂げる。それが内匠頭の祥月命日でもある、元禄15年12月14日(1703年1月30日)だった。
武士の忠義を語ったところで、やはり21世紀の若者には馴染まないのかも知れない。現代の視点からすれば、周到に練られたある種のテロ事件であるし、献身的で強固な主従関係というものもない。敗戦からの復興に勤しんだ昭和の時代ならば、まだ美徳として共感できるものがあったのだろう。かつては、年末のこの時期になると風物詩のように映画やドラマを目にしていたはずが、いまではめっきりなくなった。
だが、そんな昭和世代の人たちも、赤穂の浪人たちが内々に牛肉を食べて鋭気をつないでいたことを、どれだけ知っているだろうか。