まして、事件のあった元禄年間といえば、徳川綱吉が将軍だった時代。綱吉といえば犬公方とも呼ばれ、「生類憐れみの令」で知られる。その統治下で牛を食べようものなら、すぐさま罰せられそうなものだ。

同志に牛肉を送っていた大石内蔵助

 天下の悪法とも言われる生類憐れみの令は綱吉の死後、すぐさま廃止されたが、それでも日本人が牛肉を食べるようになったのは明治以降のこととされている。

 だが、大石内蔵助は牛肉を食べていた。しかも、牛肉を赤穂浪士に送ってまでいる。

 四十七士の中でも堀部安兵衛は、こちらはこちらで講談や映画にもなった「高田馬場の決闘」で知られる。もともとは中山安兵衛といい、越後(新潟県)の新発田藩の溝口家の家臣だったが、父が同家を追われて浪人となる。そこで江戸に出て剣術の修行中に、同門だった伊予(愛媛)の西条藩士の菅野六郎左衛門と意気投合。叔父と甥の契りを結ぶほどだった。

 この菅野が同藩士の村上庄左衛門と高田馬場で果たし合いをすることになった。ここからの描写が虚実入り乱れたドラマになる。決闘に向かう菅野が安兵衛に別れを告げにいくと、安兵衛が他所で酔いつぶれて留守だったことから、手紙を残して去って行く。帰った安兵衛がこれを見て、高田馬場まで人間業とは思えない“韋駄天走り”で駆けつける。すると菅野は、敵勢に囲まれて痛手を負っている。そこに安兵衛が助太刀に入り、「18人斬り」とも「16人斬り」とも伝えられる逸話を残すことになった。

 これを見そめたのが、赤穂藩士の堀部弥兵衛だった。中山姓のままでもいいから婿養子になって欲しいと懇願し、安兵衛はこれを受け入れ、やがて堀部安兵衛となり、義理の父と浅野内匠頭の仇討ちをすることになる。

堀部弥兵衛と堀部安兵衛:歌川国貞作(歌川国貞, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で)