港区芝にある、江戸の薩摩藩邸跡

(町田 明広:歴史学者)

◉幕末維新人物伝2022(10)「江戸藩邸自焼事件の真実①」(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/71271

江戸での堀次郎の使命

 久光四天王の1人である堀次郎によって、島津久光の率兵上京の口実を得るため、江戸上屋敷の芝薩摩藩邸の放火という大胆な謀略が、文久元年(1861)12月7日に決行された。

 藩邸自焼について述べる前に、10月24日および11月12日の堀に差し立てられた急飛脚について触れておこう。これによって、既に出府以前に検討されていた一橋慶喜・松平春嶽の謹慎解除および要路登用の建言およびその実現のための周旋という使命が、あらためて堀に託されたことが確認できる。

  大久保利通は堀に対し、11月18日付書簡で「段々御模様も相変何共難有、御互ニ為天下国家大慶至極無此上、就而(ついて)は其元之御周旋は追々之御趣意に基キ、ぜひ御成就之程偏(ひとえ)ニ御頼申上候」(『鹿児島県史料(大久保利通史料)』)と、その成功を依頼した。

大久保利通

 なお、「御模様も相変」とは、久光による国事周旋に反対していた家老島津久徴の罷免およびその腹心の左遷が実現したことを指している。つまり、久光体制が一層強化されたのであり、それによって、久光四天王の1人、中山中左衛門の国事周旋の内勅を得るための京都周旋と呼応して、江戸での堀の活動が可能となった。

 またその書簡では、依頼する「一奇策」が上首尾に運んだ場合は、この上ない大幸である。いずれにしろ、その成否の行方にこそ、今後の「大事」の成就が叶うかどうかの試金石であると、堀の周旋に期待を寄せた。

 ここで問題となるのがこの「一奇策」は何を意味しているかである。筆者はそれを慶喜・春嶽登用周旋、「大事」は久光による幕政参画を指していると考える。結果として、「一奇策」の閣老による採用はなかったが、その帰趨が薩摩藩のその後を規定する極めて重要な事象であったのだ。

「一奇策」とは、何を意味するのか?

 ところで、今までの通説では「一奇策」は芝薩摩藩邸放火を指すとしている。確かに、放火は紛れもなく大奇策である。この点を、大久保書簡(12月5日、堀次郎宛)によって検証したい。

 大意としては、2度の飛脚が速やかに到着し、その結果「御趣意」通り、周旋に奔走していると考えるが、実に難問と察している。しかし、最初から堀に委任の予定であったので、安心している。また、仙台藩主参府免除などが賄賂で実現しているとのことなので、参府延期の件も余程容易に運ぶものと推察している、という趣旨であった。

 つまり、「御趣意」は慶喜・春嶽登用周旋であり、これは難題としながらも、参府延期は容易との認識を示している。この時点での大久保の認識からして、藩邸放火という奇策を用いる必要性は共有されていないとするのが自然ではないか。以上から、「御趣意」(「一奇策」)を芝薩摩藩邸放火とは比定できず、筆者が述べたとおり、慶喜・春嶽登用とするのが妥当であろう。