将棋を指すと熱が下がった大山
大山康晴十五世名人(享年69)は昭和時代初期、6歳で将棋を覚えた。その年に病気になり、岡山県の実家で療養していたとき、近所の人がお見舞いに来て将棋を指してくれた。すると熱が下がって楽になったが、後で熱が上がった。翌日にその人と将棋を指すと、また熱が下がった。そんな不思議なことがきっかけとなり、将棋を本格的に習って上達した。
大山は小学4年のとき、学校の成績が落ちたことで、担任の教師に「将棋を止めろ」と命令された。仕方なく従ったが、将棋を指せない辛さで沈んだ表情を浮かべる日々を送った。父親は息子の様子を心配して小学校に相談に行くと、新任の教師は「どんな道でもいいから、日本一になりなさい」と激励してくれた。
大山はそんな理解者のおかげで、将棋への道に進んでいった。後年には日本一となる名人に就いた。
「ケガの功名」で棋士を志した升田
升田幸三実力制第四代名人(享年73)は昭和時代初期、10歳で将棋を覚えた。地元の広島県で将棋の腕は無敵だった兄に厳しく指導された。広島県は昔から武芸が盛んだった。升田は「剣聖」と謳われた宮本武蔵に憧れ、剣術家になりたいと思っていた。しかし12歳のとき、自転車に乗って坂を下る途中で横転し、岩にぶつかって左足を大ケガした。実際には骨折しなかったが、「剣術家にはもうなれない」と思い込んだ。
升田は、左足が不自由ながらも一流棋士になった土居市太郎八段(後年に名誉名人=享年85)のことを知ると、自分も同じ身の上なので、日本一の棋士になろうと心に決めた。まさに「ケガの功名」によって、将棋の道に進んでいった。後年には「新手一生」を唱えて創造的な戦法を開拓し、「鬼才」と呼ばれた。
「神武以来の天才」と呼ばれた加藤
加藤一二三・九段(82)は小学1年の頃、福岡県の地元で近所の子どもたちや次兄と将棋を指して、ほとんど負けなかった。やがて勝ってばかりでつまらなくなり、3年ほど指さなかった。小学4年のとき、新聞の将棋欄の観戦記をたまたま読むと、「将棋というゲームは、正しい手を積み重ねていけば勝てる、理詰めの世界なんだ」と思うようになり、将棋への興味を再び持った。
母親はそんな息子を見て、将棋好きの人たちが集まる将棋クラブを教え、「行ってみたら」と勧めた。その一言がきっかけとなり、加藤は将棋の世界に進んでいった。後年には「神武以来の天才」と呼ばれた。
「かりん糖」を目当てに指した米長
米長邦雄永世棋聖(享年69)の山梨県の実家は、戦前は有数の資産家だった。しかし、戦後の農地改革などで没落し、食うや食わずの貧乏暮らしを送っていた。5歳で将棋を覚えると、3人の兄たちと指して遊んだ。将棋好きの人たちが集まる近所の理髪店にも通った。そこで出されるお菓子の「かりん糖」を食べるのが目当てだった。時には「カツ丼」をご馳走になった。
米長は、実家では出てこない食べ物に引かれ、その理髪店で将棋を指し続けた。やがて棋士を目指すほど強くなった。
私こと田丸昇九段(71)は12歳で将棋を覚えた。そのきっかけは、「吹けば飛ぶよな 将棋の駒に・・・」の歌詞で始まる、村田英雄が歌った『王将』をラジオで聴いたことだった。そのエピソードは、次回のテーマにする。