(廣末登・ノンフィクション作家)
最近、ネットニュースを見ていて、頻出するワードがある。読者の皆さんも度々目にされると思うが、「親ガチャ」と「無理ゲー」である。コロナによる暗いニュースが多い中、こうしたワードに関する記事を目にすると、気分が沈む方も多いのではなかろうか。
軽く一読すると、人の人生は生来的に決まっているようにも思える。自分は親ガチャに外れた。だから自分はこのような境遇なんだという怨嗟の声もネット上には散見される。
「親ガチャ」とは、「子どもは親を自ら選ぶことはできない」という意味だ。人生を大きく左右する家庭環境や境遇などは運任せだということを指す。顔・身長・体型・経済状況・頭の良し悪し・毒親・育つ環境など、当てはめられる内容は様々である(神戸新聞NEXT 2021年11月9日)。
親ガチャには大外れ
筆者は、親ガチャに「大外れ」したくちである。貧乏を画に書いたような家庭で育った。テレビもなく、食べていたものは敢えて書かないが、子ども時代からひどい環境で生育した。
何より、親の教育方針で学校に行かせてもらえず、ひたすら家庭内でスパルタ教育を強いられたのだから堪ったものではない。自分で言うのもなんだが、幼少時を思い返してみると、よくここまで生きてこられたものだと感心する。
そうした底辺で生きてきた筆者が、一念発起して這い上がろうとしたとき、ふと見渡してみると社会はバブル崩壊後の混乱期を迎えていた。浮かび上がるのは「無理ゲー」とも思える状況だ。
無理ゲーとは、「常人では攻略が無理なほど難しい――攻略不可能なゲーム」のことである。この用語は、もともとゲーム用語であった。それが転じて社会生活においても、実現困難な達成レベルや文化的目標を指す言葉として定着した。