宇宙飛行士としてスペースシャトルに搭乗した向井千秋氏。現在は東京理科大学スペースシステム創造研究センターのスペース・コロニーユニット長として、宇宙で人が暮らすための技術開発であるスペース・コロニー研究に取り組んでいる。
宇宙活動のプレーヤーが国家から民間へシフトしたことで、宇宙ビジネスはますます加速し、一大産業となった。人が宇宙へ行き、居住する時代はもうそこまで来ている。『スペース・コロニー 宇宙で暮らす方法』を上梓した向井氏(東京理科大学特任副学長)に話を聞いた。(聞き手:鈴木 皓子 シード・プランニング研究員)
※記事の最後に向井千秋氏の動画インタビューがありますので是非ご覧ください。
──向井さんは宇宙飛行士として1994年、1998年にスペースシャトルに搭乗しました。現在は東京理科大学スペース・コロニー研究センター長を務めています。ご自身と宇宙の関わりについて教えてください。
向井千秋氏(以下、向井):ユーリイ・ガガーリンが人類で初めて宇宙に行ったのは1961年、私が10歳の時でした。彼の「地球は青い」という一言に、とても驚いたんですね。「自分の足元はこんな茶色い土なのに、宇宙から見た地球は青いんだ!」と。
1963年にはワレンチナ・テレシコワが女性初の宇宙飛行士として宇宙に飛びました。彼女のコールサインは「カモメ」だったので、「ヤー、チャイカ。こちらカモメ、地上はどうですか?」と言うんです。その「カモメ」というのがまさに、女性が宇宙を飛んで通信しているイメージにぴったりでした。
そして、私が高校生の時、アポロ11号が月に着陸しました。「月から地球を見ている人がいるんだ!」ということに、また驚きました。日本にはまだJAXA(宇宙航空研究開発機構)も宇宙飛行士という職業もない時代でしたが、子供の頃から10代にかけて宇宙から受けた感動は非常に大きかったですね。
その後、医者になって6年目の1983年12月、新聞で「日本人宇宙飛行士募集」という小さな記事を読みました。それは科学技術や医学、生物学などの研究のために宇宙を利用するので、それらの分野の人から宇宙飛行士を募集するという内容でした。「アメリカやロシアの軍人だけではなく、日本人も宇宙飛行士になれるのか。ガガーリンのように、自分の目で故郷である地球を見たい」と思いました。
当時、私は大学病院に勤務していて悩みもありました。自分がどんなに一生懸命やっても亡くなってしまう人がいる。特に、小さな子供の中には、病院で生まれてそのまま病院で亡くなってしまう子もいて・・・。宇宙から地球を見ることによって、より広い視野で深く物事を考えられるようになるのではないか、と思うようになりました。
それから当時は男女雇用機会均等法の施行前で、医者は例外でしたが、女性の仕事や業種は非常に限られていたんですね。でも、宇宙飛行士の募集条件には「性別は問わない」と書いてあって、それもいいなあ、と思って。
人間の活動範囲は宇宙にまで広がっている、重力を振り切って地球の外に行って仕事ができる、そういう時代に私は生きているということに足が震えるほど感激しました。その後、幸いにも第1期の日本の宇宙飛行士のグループに入れていただいて、それから宇宙にどっぷりの人生です。