平壌の万寿台大記念碑。金日成主席と金正日総書記のブロンズ像が飾られている(写真:AP/アフロ)

 かつて日朝両政府が推進した在日朝鮮人とその家族を対象にした「帰国(北送)事業」。1959年からの25年間で9万3000人以上が「地上の楽園」と喧伝された北朝鮮に渡航したとされる。その多くは極貧と差別に苦しめられた。両親とともに1960年に北朝鮮に渡った脱北医師、李泰炅(イ・テギョン)氏による手記。今回は、北送事業で北朝鮮に渡った同じ在日朝鮮人の親友、申誠に関する第2話

◎李 泰炅氏の連載はこちら(https://jbpress.ismedia.jp/search/author/%E6%9D%8E%20%E6%B3%B0%E7%82%85)をご覧ください

◎第1話を読む(「日本に住む彼女と結婚するために脱北を決意した在日朝鮮人の半生」:https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/66588)

(李 泰炅:北送在日同胞協会会長)

 北朝鮮で共に過ごした親友の申誠は、日本にいる恋人と会って結婚したいから脱北すると私に打ち明けた。私も彼の行き先は日本しかないと考えた。彼の脱北をまるで自分のことのように思ったし、助けたいと考えた。

 申誠と私は数十回にわたり、遠大な脱北プロジェクトを立て始めた。いつでもどこでも監視を受けている申誠には何もできなかった。そのため、彼ほど監視されていなかった私が図書館で中国の地図を手に入れ、彼はそれを書き写した。

 私と申誠が立てた脱北計画は以下のようなものだ。

 咸鏡北道茂山郡から豆満江を越えて中国に入るために、まず従兄弟が住んでいた咸鏡北道吉州にお見合いに行く名目で出発する。「敵対分子」の烙印を押された彼が、国境に近い茂山郡に行く旅行証明書の発給を受けることなどできるはずもないので、吉州に着いたら茂山に向けて山中を行軍するという計画だ。

印がついているところが咸鏡北道茂山

 そのために、コンパス、ナイフ、山の中でも使えるレインコートと日本製の服を用意した。豆満江を渡って中国に入ったら、日本製の服に着替え、北京に向けて行軍する。中国で捕まったら、日本語しかできない日本人を装う。申誠の母親は日本人だし、彼自身も日本語が堪能だった。

 そして、パスポートを失くしたといって日本大使館に送ってくれるように駄々をこねる。母は日本人だし、彼自身も日本国籍を持っているので、日本が受け入れてくれるだろうという計画だ。