1965年(昭和40)の名人戦で大山康晴名人(当時42)に挑戦した山田道美八段(同31)が、第1局の対局場の東京・広尾「羽沢ガーデン」の庭園で想を練っているところ。写真提供/田丸 昇(以下同)

(田丸 昇:棋士)

名人戦は1勝4敗で敗退

 1960年代の頃は、大山名人が五冠のタイトルをほぼ独占して無敵を誇っていた。

 山田八段はその大山に敢然と立ち向かっていた。大山が得意とした「振り飛車」を徹底的に研究し、自ら発案した「棒銀」作戦を用いて攻め込んだ。しかし、大山の強靭な守りを崩せなかった。名人戦は1勝4敗で敗退した。

 山田は「この名人戦を通じて感じたのは、大山名人の腰の重さ、勝負の駆け引きのうまさ、中終盤の強さである。今度の戦いで、自分の未熟さと弱点を知った。しかし、大山打倒の可能性も身をもって感じた。近い将来、大山城を必ず落城させるつもりだ」と、後日に《打倒大山》を宣言した。

「形にとらわれたひ弱な将棋」

 山田は1933年に愛知県で生まれた。中学時代に将棋に熱中し、同県に住んでいた金子金五郎九段(同47)の弟子になった。1950年に上京し、棋士養成機関の「奨励会」に初段で入った。当初はなかなか勝てなかったが、懸命に努力して力を付けた。1951年に四段に昇段して棋士になった。

 山田の師匠の金子九段は現役時代、序盤作戦に精通して「序盤の金子」と謳われた。山田はその影響を受け、序盤の研究にひたすら打ち込んだ。将棋雑誌で研究手順や新手法を紹介し、本来は「軍の機密」といえる情報を惜しみなく公表した。

 仲間の棋士たちの山田への評価は、「形にとらわれたひ弱な将棋」と低かった。実際、山田は中終盤の戦いで非力なところがあり、考えすぎてポカをしでかすこともあった。

当時はめずらしかった研究会で力をつける

 山田は七段時代の1963年、関根茂六段(同34)、富沢幹雄七段(同53)、宮坂幸雄五段(同34)らの親しい棋士たちと、実戦主体の「研究会」を定期的に開いた。

 単独での研究は時として行き詰まってしまうが、共同での研究は各棋士の考えや感覚が違うので、新たな発想や広がりがあった。

 昔の将棋界は、棋士同士で研究することはあまりなかった。「自分以外の棋士はすべて敵」「将棋は共同で研究するものではない」「当人同士が対局したらどうなるんだ」などと言われ、山田たちの研究会は否定的な見方をされた。

 しかし、研究会での成果は公式戦で次第に表われてきた。

 1964年に関根が七段としてタイトル戦の挑戦者に初めてなった。山田も同年に順位戦でA級に昇級し、1965年に名人戦の挑戦者になった。富沢と宮坂も好成績だった。