内モンゴルで経済学者たちのリサーチと講演は順調に進んだが、モンゴル語は私にはわからず、鳥のさえずりのように聞こえた。私が日本語を中国語に訳し、それを北京からの同行者がモンゴル語に訳すという、伝言ゲームばりの意図伝達だったから、果たしてどこまで正確に伝わっただろうかと、やや不安になった。
数日後、夜の宴会に招かれ、モンゴルの人たちが歌を披露してくれた。歌詞はわからなかったが、メロディーに聞き覚えがあった。日本の小学校唱歌にある「さくらさくら」の曲なのだ。聞けば、モンゴルの伝統的民謡だという話で、ここにも日本との共通文化が根付いているのかと感慨を覚えた。この曲は、日本では幕末か江戸時代に子供の琴の練習曲として作られたとされているが、待てよ、もしかして近代の歴史的な関りから、内モンゴルに定着した日本のメロディーなのではないかと想像が膨らんだ。
モンゴルの文化を尊重した清朝
モンゴルの歴史は長く、近代に入って日本とも深い関りがある。
古くは、11世紀にチンギス・ハーンが中央アジアに分散していたモンゴルの遊牧民を統一し、イラン、東ヨーロッパ、中央アジアから中国まで征服して、モンゴル帝国を打ち立てたことはよく知られている。
さらに1271年、チンギス・ハーンの孫でモンゴル帝国の第五代皇帝だったクビライ(フビライ)が、モンゴル高原と中国本土を中心にして国号を「大元」と改め、南宋を滅ぼして、元王朝を打ち立てた。だが、漢族の反乱が相次ぎ、1368年に朱元璋が起こした大反乱に負けてモンゴル高原に退き、元王朝は90年で終止符を打った。
朱元璋は明王朝を打ち立て、漢族支配を高らかに宣言した。モンゴル高原でまた遊牧生活に戻ったモンゴル帝国の末裔たちは、その後の国際政治に翻弄されることになった。