臼井城合戦も謙信の敗戦か?

 上杉謙信はそれまで関東管領の役職と権威を背景に関東諸将を従え、関八州を縦横無尽に駆け巡っていた。

 対する北条軍とその支持武将たちは、ほとんど抗する術もなく、親上杉派に蹂躙される日々であった。しかし、下総臼井城合戦の敗北を機に、情勢は一変する。小田・結城・小山・宇都宮ら、そして由良・成田・皆川らまで次々と離反して北条派に転属することになり、謙信は関東越山を考え直すことになったのだ。

 臼井城合戦は、これほど重要な戦いである。対談した伊東潤氏も「『謙信越山』では、ぜひ書いてほしかった」と仰るほどだった。ちなみに伊東氏は故・火坂雅志氏との合作小説『北条五代』(朝日新聞出版・2020)で、リアリティを重視する描写で、かなり臨場感の高い合戦像を提示している。ついでに言及させてもらうと、若手作家の簑輪諒氏も臼井城合戦をメインテーマとする長編小説『最低の軍師』(祥伝社文庫・2017)を上梓されている。

 これら小説の中身は直接楽しんでもらうとして、ここでは戦績としてどう見るべきかを説明させてもらおう。

 臼井城合戦の史料は、一次・二次双方に数多く残されている。ただし、両者の描く合戦の姿は、様相が異なる。

 二次史料に描かれる合戦を簡単に紹介すると、謙信が北条方の臼井城を攻めて、これを落城寸前まで追い詰める。城主・原胤貞(千葉家臣)は防戦に努めるが、軍配者・白井浄三の智謀と北条から派遣された勇将・松田康郷の活躍により、謙信たちを追い散らし、「越後勢を悉く討取りけり」という大戦果を挙げたという(『関侍伝記』)。

 ただし二次史料でも古いものを見ると、その勝利を「謙信カ兵退去ス」(『鎌倉九代後記』)などと、謙信が撤退したことのみを記しており、白井浄三なる人物は登場していない。具体的な戦果もよくわからない。すると、これらのドラマ的展開と越後軍撃退の内容は、あとから盛られたフィクションでありそうだ。

一次史料に見る臼井城合戦

 さて、一次史料またはそれに準ずる記録を見てみよう。城攻めを優位に進めていた謙信は「御人衆先年小田原陣ニも被勝」と、臼井城を関東大連合軍で追い詰める様子を誇らしく述べている。

 ついで、これに援軍を差し向けた北条氏政は戦闘途中の3月25日に、さる23日に「敵数千人、手負・死人出来」の戦果を挙げたと述べ、足利義氏も同日中に「五千余手負死人出来」という戦果が挙がったことを28日に述べている。そして、戦後の4月12日に氏政は「敵五千余手負死人仕出、翌日敗北」させたことを確定事実として述べている。

 こうして謙信たちは撤退したのだ。

 ただし、氏政の3月25日付書状を見ると、「手負と死人のため、安房の里見義弘と上総の酒井胤治の軍はみんな去っていった。23日の夜が明けると越後の兵たちも何人か移動しているらしい(手負・死人故、房州衆・酒井陣者悉明、廿三之晩景、越衆少々相移之由)」とも書いてある。ここから「手負・死人」の主体が房総現地の武将たちであることがわかる。そして謙信の諸隊が少しずつ撤退を開始しているのは、あまりの敗勢に継戦不可能と判断したからだと見られる。

 また、臼井城合戦は、謙信が「小田原陣」以上の人数が集まっていると述べたように、上杉方の関東大連合軍が参戦する大規模な合戦であった。後期の二次史料が記すような謙信単体と臼井城の守将たちが対決する程度のものではない。おそらく関東屈指の重要対決で、戦ったのも謙信と臼井城というより、上杉派と北条派の関東武将同士であっただろう。

 この戦いは「謙信の常勝神話が崩れたため、関東諸将の心が離れたのだ」と解釈されることが多いが、実際にはそうではなく、現地の武将たちが大変な損害を被り、彼ら自身が北条派と争う実力と意思を失ったためと考えるのが妥当である。

 こうしてみると臼井城合戦は、たしかに謙信の敗戦ではあるが、上杉軍が単独で負け、越後兵が大きな被害を受けたというイメージで見るべきではない。謙信が大軍を催して、下総の城を攻めているところへ、現地の武将たちが後詰に現れて、謙信が直接指揮しない先手の現地武将がこれに応戦して、大敗を喫したものだろう。

 なお、北条が派遣した兵はこの戦いであまり活躍しなかったようで、小規模合戦をした形跡しか残されていない。謙信も氏政も合戦の主役ではなかったと思われる。この合戦については機会があれば、また語ってみることにしよう。