生山合戦は謙信の敗戦か?

 ここからはその戦績の内実の話をしよう。

 謙信が合戦に敗北したのはわずか2回とされている。2回の合戦とは、永禄4年(1561)の生山(なまのやま)合戦と永禄9年(1566)の臼井(うすい)城合戦だ。

 まず生山(=生野山)合戦から説明しよう。これは北条氏政と上杉謙信の戦いである。武蔵生山(本庄市児玉町八幡山付近)で両軍の兵士が戦い、氏政の兵が「越国衆を追い崩した」という記録がある。しかもこの合戦を伝えるテキストは当時の“一次史料”である。

 一次史料を最優先に取り扱う文献史学の世界では、ここに大きな会戦があったと見る研究者が多いようだ。たしかに戦闘があったのは間違いない。また、北条軍が勝ったのも間違いない。だが、気になることがある。それは軍記など後世に作られた“二次史料”にまったく記載されていないことだ。

 簡単に説明しよう。普通、当時の情勢や歴史を変えるほど重要なレベルの合戦があれば、一次史料だけでなく、二次史料にも書き伝えられる。そういう合戦は、みんなが語り合い、有名化するはずだから、後世の人々も関心を持つ。すると当然、書き手は読み手の需要に応じるため、具体的に詳細することになる。

 ところが、生山合戦はそういうものが何もない。二次史料にない大合戦というのは、まったくないわけでもないが、謙信ほどの伝記が多い人物としてはかなり異質で、注意を要する。

 すると、一次史料の内容を分析するしかないのだが、歴史研究では軍事史料の読解が、政治面と比べるとまだ発展途上にあり、ほとんど印象論のような解釈で簡単に読まれてしまうことが少なくない。例えば、関ヶ原合戦の再構築ですら、まだ始まったばかりである。

 というわけで、この生山合戦を伝える一次史料、北条氏政の感状を見てみたのだが、わたしにはこれがどう考えても派手な大合戦や会戦があったようには読めないばかりか、謙信の合戦であるとすら思えないのである。

 なぜならそこには「あなたは敵2人を打捕りました。素晴らしいです」「あなたは傷を数カ所受けましたが、痛みに耐えてよく頑張りました」などという文章しか書かれておらず、大きな合戦でこんな小さな戦果や被害の感状が出ることはない。

 あったとしてもそれがどういう規模の戦いであったかも明記するのが普通だ。この文章を素直に読むなら、その規模は集団戦ではなく個人戦の範囲に収まっている。生山合戦は、大きな会戦ではなく小さなゲリラ戦だったのだろう。

 そもそも謙信は、「無二の一戦」と呼ばれる大きな会戦を好む性分で、ゲリラ戦のような少人数の小競り合いをしない。当時の情勢を見ても、そうする必要性を感じない。この合戦の実態は、拙著『謙信越山』の第23節でも披露しているので、興味のある方はぜひそちらも読んでもらいたいが、生山での戦闘は、合戦と呼べるかどうかも怪しい小さな小競り合いだったと見るのが妥当なのだ。

 おそらく謙信が直接指揮したものではなく、その部下が少人数で物見のように前へ出て、これを氏政の部下が迎撃したものであろう。

 ともあれ、謙信の戦勝率とされるデータは、こういう実態不明の合戦を適切ではない解釈で、まとめたものなのである。

 ついで、臼井城合戦も見てみよう。