遺言を残した謙信

 さて、上杉景勝は謙信の「遺言」により、本丸へ移転したと述べているが、これがもし脳卒中から回復することなく亡くなったのなら、そのような状態で遺言を残せるはずもなく、捏造の疑いが色濃くなってしまう。だがこれを他例の通りに腹痛と読めば、この問題は解消される。特に謙信は小嶋職鎮を指名して、「次吉」の刀を形見として授けることを言い残した。

 死期を悟った謙信は、腹痛に苦しみながら、側近たちを相手に「景勝を本丸に入れて、おのおの補佐すること」と伝え、また景勝のいる場で「次吉の刀を小嶋に与えるように」と言い残したのだろう。

変容する謙信の死因

 謙信は後継体制や形見分けの遺言だけでなく、辞世の言葉も残している。近世初期の『甲陽軍鑑』[品第44]に、「謙信公四十九歳にて他界なり、辞世に詩を作り給ふ[追相尋可書之者乎]」とある。同書は元和7年(1621)までに成立したものだが、この時代はまだ、病気に倒れた謙信が辞世を詠めるほど意識がしっかりしていたと認識されていたことがわかる。少なくとも脳卒中で倒れたとは考えられていなかったのだろう。

 同書の影響を受けた宇佐美系の『北越軍記』は、「三月九日、[一説ニ十一日ニ厠ヨリ腹痛ヲ煩出]書ヨリ、謙信卒中風ヲ被煩著、」と伝えており、「書」(書斎)で「卒中風」、または「厠」で「腹痛」になったという2つの説を記している。このうちイメージしやすい「厠で脳卒中に倒れた」という内容が諸書に採用されることになったのである。

 以上、謙信の倒れた場所と病状を再考してみた。書斎で急性腹痛(腹膜炎ヵ)に倒れた謙信は、ただならぬ苦痛のなかで死期を察し、辞世の詩を詠みあげ、形見分けを行い、近しい人々に景勝を本丸に入らせるよう後継体制を言い残して、ほどなく帰らぬ人となった。

 それが今や伝言ゲームのように紆余曲折を経て、現在の通説を形作り、さらには「謙信は脳卒中で亡くなったので、遺言を残しているはずがない」という史料にない奇説まで生み出されることになったのである。

 

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