またもや失言で批判を招いた森喜朗・東京オリンピック・パラリンピック組織委員会会長(写真:代表撮影/ロイター/アフロ)

岩田太郎(在米ジャーナリスト)

事の本質は「私」と「公」のイデオロギー上の衝突

 東京オリンピック・パラリンピック組織委員会の森喜朗会長が「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」と発言したことが国内外で問題視されている。同委員会は、森発言が東京大会の基本的原則の一つであるジェンダーの平等に反し、さらにはオリパラの精神に反する不適切なものであったとして、火消しを狙った謝罪声明を発表した。

 しかし、森氏の辞任を求める声は大きくなるばかりだ。国際オリンピック委員会(IOC)が出した「森発言は著しく不適切」との再声明も沈静効果はなく、森氏の辞任は避けられない情勢となってきた。元来、人はジェンダーに関係なく是々非々で評価されるべきであり、森会長が女性の積極的な発言や参加を抑えようとしたことは、明らかに間違っている。

 思い上がった権力者としての言動だが、今の焦点である森氏の進退は些末な事柄に過ぎないように見える。なぜなら、多くの女性論客は事の本質を「女性の経済的・社会的な自立に対する抑圧」と捉えており、それが森氏をはじめとする昭和型政治家が護持しようとする「結婚と家庭の重視による共同体の持続可能性」とイデオロギー的に熾烈な衝突をしていることが問題の正体であるからだ。一過性の事象ではない。

 この記事ではまず、森発言をめぐるジェンダー議論が、近年顕著になってきた五輪の政治化の流れの中で起こった必然であったことを明らかにする。次いで、「私」の至上性を主張するジェンダー論と、「公」の重要性を説く共同体論の対立が、オリンピックという国際舞台においてどのような前提とロジックで展開しているのかを分析し、女性の社会進出が突き付ける「日本の選択」を読み解く。

 そもそも、森会長が反したとされるオリンピックの精神とは、何なのだろうか。週刊誌『女性自身』は、「そもそも五輪憲章には、こうある。『男女平等の原則を実践するため、あらゆるレベルと組織において、スポーツにおける女性の地位向上を奨励し支援する』」と根拠を示した上で、「つまり、五輪とは『性差別をなくす』ことを理念としている」と論じ、オリンピックの主目的がジェンダー問題の解決であると示唆した。

 また、ウェブメディアBuzzFeed Japanも、「オリンピック憲章は、明確に差別を否定している」と指摘し、憲章の根本原理の中にある次の部分に森氏の意見が抵触するとする。「このオリンピック憲章の定める権利および自由は人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治的またはその他の意見、国あるいは社会的な出身、財産、出自やその他の身分などの理由による、いかなる種類の差別も受けることなく、確実に享受されなければならない」

 だが、こうした報じ方には誇張や論点の混同が含まれる。なぜなら、憲章の根本原則で最初に述べられているのは、差別否定の政治的な道具としての五輪ではなく、生き方としてのスポーツ、そして競技がもたらす世界平和の礼賛であるからだ。実際、オリンピック憲章には以下のように書いてある。