2つ目は、田沼意次が実施した商人活動を重視する政策が、商人との結託行為と見られたのではないかということです。どの時代も、政治家と商人との距離が近いと賄賂が疑われるものです。

 ただし、この商人および商業活動を重視するという政策は、田沼意次の再評価にもつながっていきます。

開明的な重商主義政策だった?

 田沼意次の商業活動重視政策の内容をみると、株仲間の公認のほか、国内鉱山や蝦夷地の開発、海外から輸入していた薬草などの国内生産化など、現代でいう産業開発ともいうべき政策が並んでいます。

 当時の日本は税収の大半を米で得るなど、あくまで米が流通の中心であり、貨幣は従ともいうべき状態でした。しかし田沼意次は幕府財政の再建に向け、新田開発も手掛ける一方で、全体として商取引の活発化、それに伴う貨幣による税収増を図っていた節があります。こうした貨幣経済への脱却ともいうべき重商主義的な政策は、時代を先取りした改革であったとする見方が近年なされるようになってきました。

 田沼意次の改革は、内外からの批判や自然災害を受け、結果的には失敗に終わっています。ただ、その改革の先進性が高かったことは間違いありません。田沼意次への批判は前述の通り、異例の出世ぶりへの嫉妬によるものが多かったこともあり、実証的検証が進むにつれて再評価されるようになったとみられます。

歴史的評価は二転三転する

 冒頭にも書いた通り、歴史的評価というのは案外常ならぬものです。今回は石田三成と田沼意次の近年における評価の逆転を取り上げましたが、今後彼らの評価が再び低下して元に戻ることも十分ありうるでしょう。

 とはいえ、歴史上の評価というものは、そうした変遷を経て固まってくるところもあります。二転三転する評価の変遷を眺めるのも歴史の楽しみ方の1つと言えるかもしれません。