豊臣秀吉に仕え、行政官僚として辣腕を振るった石田三成ですが、徳川家康に対抗するために西軍を興し、関ヶ原の合戦(1600年)を引き起こしました。しか関ヶ原では味方に相次いで裏切られたことで敗北に至り、一時は逃亡するも捕縛され、最後は京都で斬首されました。

 徳川家康に盾突ついたという経緯から、江戸時代に石田三成は完全な悪役として批判され続けていました。

 明治以降もそうした評価が続き、関ヶ原で多くの味方に裏切られたこともあってか、「頭はいいけど人望のない嫌味な奴」というイメージが広がっていました。

 しかし近年になり、石田三成の評価を見直す動きが広がっています。最終的に敗北したとはいえ、豊臣家から政権を簒奪(さんだつ)しようとする徳川家康の思惑を見抜き、勝算が薄いとわかっていながらも戦いに挑んだことから、「滅びゆく政権に殉じた忠臣」というような評価がなされるようになってきました。

悪人エピソードの多くは後年の創作

 なぜ石田三成は再評価が進んだのか。1つの理由としては、石田三成のこれまでの悪人エピソードが近年の研究により、否定されるようになったことが大きいでしょう。

 たとえば豊臣秀吉が甥の豊臣秀次に切腹を迫ったのは、石田三成が讒言(ざんげん)したためという説が、かつては広く流布されていました。しかしこの説は現在ほぼ否定されています。その他の悪人エピソードについても、多くが江戸時代にイメージ操作的に後から作られたものということが明らかになってきています。

 とはいえ、その尊大な態度から石田三成は周囲から人望がなかったというのはほぼ間違いないようです。ただこの点についても、業務に私情を挟まず粛々とやるタイプの人間だったゆえに反感を買っただけ、という見方もされるようになってきました。