『長篠合戦図屏風』(部分)(Wikipediaより)

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

JBpressでの連載をまとめた『1からわかる日本の城』を発刊した西股総生先生。今回紹介するのは戦国時代の主力兵器。織田信長の桶狭間や長篠の合戦に見られるように鉄砲と思われがちだが・・・武将たちは何を持ち、戦場へ出たのか?(JBpress)

数が揃わなかった鉄砲

 前回、織田軍の鉄砲隊は長篠合戦の主役ではなかった、という話を書いた。信頼できる史料から分析すると、戦国大名の主力軍でも、鉄砲の装備率は全体の2割に満たないことがわかる。鉄砲は、戦場の主役になるほど数が揃わなかったのだ。

 では、戦国時代の主力兵器は何だったのだろうか?

 もともと、武士が持つ武器の代表は弓矢であった。源平合戦の頃には、武士としての生き方を「弓馬(きゅうば)の道」などと呼んだし、戦国武将たちが書いた手紙でも、戦争のことを「弓矢」と言ったり、武将のことを「弓取り」と呼んだりしている。

 けれども、その一方で戦国時代には、戦場での活躍のことを「鑓働き」、敵陣に真っ先に乗り込む手柄を「一番槍」などと呼んでいる。戦国時代には、武器の中で槍の存在感が高まっていたようだ。では、槍はどのくらいのウェイトを占めていたのだろう。

 実は、軍勢の動員システムにかけては、織田信長よりも北条氏や武田氏といった東国大名の方が、格段に先進的であった。北条氏や武田氏は、家臣たちの知行高を台帳によって正確に集計し、これを元にして動員すべき兵の数、持参する武器の種類と数量を、家臣の一人一人に対して割り当てる体制を整えていたのだ。

 対する信長は、そのような「数字による管理」を行った形跡が、まるでない。どんぶり勘定でやっていたとしか思えない。たとえて言うなら、北条産業や武田興産は会計システムを導入しているけど、織田商店は、まだ店先に吊したザルから現金を出し入れしている、みたいな話なのだ。

 さて、先進的だった東国大名たちが残した史料を見ると、槍の装備率はおおむね4割〜5割くらいに達する。この場合の槍は「長柄(ながえ)」と呼ばれる、5〜6mもあるもので、足軽や雑兵といった身分の低い兵たちが装備したものだ。

月岡芳年画「芳年武者无類 山中鹿之助幸盛」(Wikipediaより)

 ドラマなどでは、そんな長い物を撮影現場で振り回すわけにはいかないから、野外ロケでも2mくらいの槍で済ませている。しかし、陣笠&腹当てスタイルという、ドラマでよく見る足軽たちが持っていた槍は、本当ははるかに長かったのだ。

 一方で、史料には「馬上(ばじょう)」と表される兵たちがいる。「馬上」というと、騎兵をイメージする人も多いと思うが、戦国時代の場合は「馬に乗って従軍する武士身分の兵」という意味で、騎兵ではない。戦国時代には陣地戦や城の攻防戦が多かったので、「馬上」の者も歩兵として戦う場合がほとんどだったからだ。この、武士身分の兵たちは、もう少し短い4mくらいの槍を装備していた。

 「馬上」は軍勢全体の2〜3割くらいを占めるのが普通だから、長柄部隊とをあわせると、戦国時代の軍隊の過半数は槍を装備していたことになる。

 戦国時代の主力兵器は、間違いなく槍だったと言ってよい。

 槍が戦場で使われるようになったのは南北朝時代の頃からであるが、鎧に対する貫通力がすぐれていたため、戦国時代には急速に普及して、主力兵器の座を占めるようになったのである。

 

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