浜野浦の棚田 ©TsuruSho7 クリエイティブ・コモンズ・ライセンス(表示4.0 国際)

 べつに、まだやり残したことがあるとか、「死ぬまでにやりたい〇〇のこと」とかが、あるというのではない。ただ単純に、死ぬのはいやだな、生きていることはいいことだな、と山下清みたいに思っただけである。そこで、かつて「なにが楽しくて生きているのか?」といわれたことに対して、「ばかだな、おれはただ生きてるだけで楽しいんだよ」と、考えたことを思い出したというわけである。

「生きる元素」みたいなことがあればいい

 生きていることが楽しくてしょうがない、というのではない。そんなこと、あるわけがない。生の側の意識だけで考えると、生きるということは、大しておもしろくも楽しくもないものである。たまにそういうことはあるにせよ、めんどうくさいことや嫌なこと、苦しいことの方が多いだろう。だからといって、じゃあ死ぬか、とはならない。明日死んでもいい、とは思わないのである。死の側からの意識で考えてみると、あっちは一切が無である。まったく楽しくないのである。

 死ぬことと比べるならば、生きていることははるかにいいのである。いったいどこがいいのか。まずあっちは真っ暗だが、こっちは明るい。これが第一感で、決定的だと思われる。さらにあっちは冷たいが、こっちは暖かい。

 あっちは一切無である。しかしこっちには「緑の木々、赤いバラ、青い空、白い雲、虹の色」がある(ルイ・アームストロングが歌う「素晴らしき世界(What a Wonderful World)」の歌詞だ)。ほかにも、心地いい風、木漏れ日、真っ赤な夕日がある。川が流れ、虫が鳴き、花が咲いている。こっちでは呼吸をしている。歩くことができる。

 べつに事々しく、海外旅行やディズニーランドに行かなくてもいいのだ。キャンプ場でバーベキューをしなくてもいい。SNSで必死に「いいね」を欲しがらなくてもいい。それ以前の、日々の取るに足りない、あたりまえのこと、つまり「生きる元素」みたいなことがあるだけでいいのである。

 死の側から生の側を見たとき、それらのなんでもない青空、白い雲、薫風、花が咲き、息をしていること、歩けることなどの諸元素が、一気に生彩を帯びてくるのである。そのときに感じる心身の浮遊感(快感)を、とりあえず「楽しい」といってみるのである。