現在、日本の少子高齢化社会では、子を産む・育てることはさまざまな困難をともない、病気になっても年をとっても、元気でできるだけ長く生きることが奨励される。作家の村田沙耶香さんは、これらのライフスタイルやルールを取っ払って、「産み育てること」と「死ぬこと」への困難が無くなったら、どんな世界になるのかを『生命式』(河出書房新社)で描いた。
現実の世界では考えにくい命のバトンをつなぐ死者の送り方や、婚姻を前提にしない子づくりと子育てをどう着想したのか、村田さんにとって「死」と何か。話を聞いた。(聞き手・構成:坂元希美)
人は死んだら本当に無になるのか
――いまの日本ではさまざまな「生きづらさ」があります。そのつらさが産むことや生きること、死ぬことを複雑にしているように感じます。
村田沙耶香(以下、村田) 私たちはルールや物語にまみれて暮らしているけれど、そうじゃないところから純粋な視点で人間を見た時、どうなるのかとよく考えるんです。たとえばニンゲンを10匹もらって、絶やさないようにしなさいと言われたらどうすればいいか。200年もたせるとしたらどうするか、1000年もたせるには何が必要なのか。ニンゲンには寿命があるので、そのままだと繁殖させなくてはいけないですよね。そこに家族システムは必要なんだろうか、ただ増えればいいのか、その中で恋愛は生まれるのか。
ただ生きているだけだと見えなくなってしまう、邪魔になるものを全部とっぱらったら、真実が見えてくるのではないか、という思考実験を、小説を書きながらずっとしているような感覚です。『生命式』の中のタイトル作品には人肉食も出てきます。人肉に対する、「食べてはいけない」という気持ちはどこからくるのか、この世に絶対に覆せないタブーはあるのか、子供のころからそういう他愛のない問題を考え続けるのが好きでした。
小説を書いていると死というものがわからなくなる時があるんです。本作に収められた短編「素敵な素材」の中では、死んだ人の体で服や家具なんかをつくるのですが、皮を剥いで靴をつくるのは他の動物でやっていることですし、読者の方からは遺灰をダイヤモンドにしてアクセサリーにするサービスを思い出したと言われました。昔、ヨーロッパでは大切な人の髪をロケットに納めてアクセサリーとして身に着けていたといいますし、そう思うとロマンチックで愛情ある「素敵なこと」と感じる人が急に増えるのは不思議ですよね。死んだ人の頭蓋骨をお皿にするのはグロテスクで、遺灰ダイヤモンドはなぜ素敵なのか・・・。そんな曖昧さの中で死とはなんだろうと思うことがあります。
子供の頃、人間は死んでもモノとしてはずっと残るんだと考えていて、それが不思議でした。祖父が土葬だったので、土になってどこかに残っているんだなと思うと、死んでもゼロにはならないのかな、と想像したのだと思います。意識が亡くなったら死なのか、モノになっても死んでいるのか、曖昧に感じていました。