(城郭・戦国史研究家:西股 総生)
大名の転勤は大忙し
われわれ現代人は、大名の転封を、つい自分たちの転勤と同じように考えがちだ。豊臣秀吉から転封を命じられた徳川家康は、いったん国元へ帰り「やれやれ、関東に国替えだ」などとボヤきながら、家臣や家族と引っ越しの相談をして・・・、という情景をイメージしてしまう。
しかし、大名の異動は、そのような悠長なものではなかった。家康の場合、秀吉から関東への転封を命じられたなら、そのまま軍勢を率いて江戸城に入るのである。もちろん、気の利いた家臣を国元につかわして、引っ越しの段取りはさせなければならないが、われわれの転勤とはずいぶん様子が違う。
なぜかというと、北条氏を攻め滅ぼす戦争が、豊臣政権による全国征服事業として行われているからだ。そうした中で、家康は、北条氏に領地を接している者として、先陣を切って戦うこと立場にあったのだ。そうである以上、関東転封は討滅した北条領の占領であり、江戸城に入るのは敵基地への進駐なのである。
北条氏の領地は広大であるし、その先の奥羽は未だ不安定であるから、関東の占領統治は力量のある者でなければ任せられない。家康が関東に入るのは、きわめて当然の流れだったことがわかる。
また、北条氏が滅びたことによって、奥羽の諸大名は、一応は豊臣政権へ服従の姿勢を見せた。とはいえ、奥羽の情勢は不安定であり、豊臣政権の支配を固める必要がある。そのための尖兵として、会津に送り込まれたのが蒲生氏郷だったわけだ。
しかも、伊勢松坂で18万石だった氏郷は、会津で42万石を領することになるから、領地は2倍以上に増えたことになる。大名にとって、領地は収入源であり、軍団を養うための経済基盤だから、領地が増えるということは、大軍を任されるということだ。
会津の北には最上義光・伊達政宗という、油断のならない大勢力がいる。氏郷は、最上・伊達への押さえとして、大きな領地=大軍の指揮を任されたのである。
実際、こののち奥羽では、地元勢力の叛乱が相次いでおり、その裏には伊達政宗の暗躍があったと噂された。叛乱鎮圧に活躍した氏郷は加増を受け、検地にともなう増収もあって、最終的な石高は90万石を超えた。彼は一時、日本屈指の大大名に躍り出たのである。
肥後に封じられた佐々成政の場合は、どうか。秀吉が九州北部に封じたのは小西行長、加藤清正、黒田孝高(勘兵衛)といった面々だ。彼らはいずれも、朝鮮出兵で主力となった武将たちなのである。秀吉は、九州を征服する以前から、日本国内を統一したら、次は朝鮮・明国に侵攻する、と公言している。有力な武将たちを九州に配置したのは、海外侵攻のための基盤づくりだったことがわかる。
秀吉が成政を肥後に封じたのは、武将としての力量を買って、朝鮮出兵で切り込み隊長として活躍することを期待したからなのだ。ところが彼は、肥後の占領統治に失敗してしまう。適切な占領統治を行えなかった武将に、海外侵攻を委ねるわけにはいかない。豊臣政権が、成政に詰め腹を切らせるのは、当然の政治判断だったのである。
中央から遠い地方への転封を命じられたから左遷人事だろう、など邪推するのは、現代人のひがみではなかろうか。
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