わかっていることを「教える側」と、初めて聞くことを「習う側」とでは、伝達内容の把握と咀嚼にかかる時間は当然異なります。黒板に先生が書き、それを生徒がノートにとる。パワポで投影するのに比べると時間はかかりますが、板書を生徒がノートに手で写すのに合わせて、生徒の脳が先生の脳とシンクロ(同期)し、生徒は先生が伝えようとしていることを理解します。

 リモート授業は、ネットの「効率化」という特性上、詰め込み教育に陥りがちです。詰め込みであたふたしてしまう生徒たちは、やがて疲れ果てて思考停止し、学ぶことが嫌いになってしまうでしょう。これでは元も子もありません。

 小中高の生徒に限らず、大学生についても事情は同じです。前期のリモート授業を振り返って「多忙で疲れた」とコメントする学生が多いのは、課題が多かったことも一因ですが、ネットでの授業が「あそび」のない、妙に高密度な「詰め込み授業」になりがちなことも原因のひとつだと思われます。われわれ大学教員は、リモート授業に際し、黒板ソフトを使って「板書を通じた学生の脳のシンクロ」を目指したり、「チャット時間」や「雑談ルーム」といった“無駄”をバーチャルに設定したりする等、学生の息が詰まらないような工夫をしていく必要があるでしょう。

 無駄なものがあるがゆえ、リアルな人生にはゆとりがあり、ゆったりと思索を深めることができます。青白い、頭でっかちな“正解”偏重の思索ではなく、人間の臭いのする力強い思索は、ゆっくりとした時間の流れから立ち上がってくるものです。

 われわれは、貴重な一軍枠を無駄に使って川藤幸三(Wikipedia参照)がベンチにどっかり腰を下ろしていた、1980年代半ばのタイガースこそが、「あそび」や「抜け」を感じさせる、豊かな香りのするチームだったことを、改めて思い返すべきなのかもしれません。

「非効率だからこその豊かさ」は、キャンパスライフにもあてはまります。会うつもりのなかった人間と出会い、偶然の出来事と遭遇し、事前に選り好みできないがゆえに楽しい思いも嫌な思いも味わいながら、無駄なことも含め、豊かな経験を積み重ねていく。こうした体験を実現する観点からは、「リモート大学」よりも「リアル・キャンパス」に圧倒的に軍配が上がるでしょう――私が、これからの大学の大きな方向性のひとつに、「新しい形でのリアル・キャンパスの活用」があるのではないかと考えるゆえんです。