はだしで自ら応接間を掃除

 筆者が李氏と初めて言葉を交わしたのは1999年9月の台中大地震の被災地取材でのこと。台中市郊外に位置する石岡ダムに決壊の恐れがあるというので、チャーター車を駆使し、寸断した道路を這うようにして現地にたどりつくと、視察のため当時現職の総統だった李氏がヘリコプターでダム現場に降り立ち、その際、筆者が所属していた「産経新聞」の腕章を見つけ、「おお、こんなところまで来ているの。危ない場所だから気をつけて」と気さくに声をかけてくれたのだ。ここぞとばかりに今後の対応策などを質問したが、その後、李氏に同行している現地メディア各社から「総統は今、日本語で何を話したのか」と逆に囲み取材を受ける羽目になって閉口した。

 総統退任後の2001年、李氏の心臓カテーテル手術のための訪日をめぐっては、中国の圧力の前で日本政府の判断も揺れ動いたが、当時の羅福全・台北駐日経済文化代表処代表(駐日大使に相当)とたまたま大阪市内のホテルで懇談中、李氏からの電話が羅代表の携帯電話に入り、日本政府がビザ発給を決めたことを目の前で傍聴。「李登輝氏一両日中に訪日ビザ申請」というスクープ記事を発表し、李氏の大阪、倉敷滞在に同行したこともある。

 そのような縁から2002年には当時、台北郊外の桃園・大渓にあった李氏自邸を訪問し、初めて単独インタビューを行った。李氏の刎頸の友ともいうべき医師で団体役員の何既明氏がエスコートしてくれたが、緊張しつつ玄関に入ると、筆者を出迎えるため、はだしで応接室に掃除機をかけている李氏の姿が目に飛び込んできた。総統が絶大な権力を持っていた蒋介石、蒋経国の時代との差異を思い、退任後とはいえ、その姿こそが台湾の民主化を象徴していると感じた。

台北市郊外の自邸で筆者(右端)のインタビューに応じる李登輝氏=2018年7月8日(日本李登輝友の会岡山県支部提供)

 以後、台湾大学社費留学や、台北支局長在任中を含めて交流が続き、邦人留学生を束ねて李氏との交流会を設定したことや、李氏の台北市内の自邸内で行われた李氏が信仰するキリスト教長老派の礼拝に招かれたこと、また支局長時代には筆者行きつけの台北市内の和食店で李氏と酒を酌み交わしたこともある。

「哲人」とも評される李氏だが、戦後、蒋介石らとともに台湾に流入した外省人(中国大陸籍)らから軽視される本省人(台湾籍)の身でありながら総統の座に昇りつめただけに、政治上のライバル、林洋港氏(1927~2013)との確執や、中国国民党が初めて民主進歩党に敗れて下野した2000年の総統選での、自身が所属する国民党陣営での戦いぶりなどには、過酷な台湾の政治環境を生き抜いたしたたかさ、それを支えた激烈な気性も垣間見られた。一方で台湾においては、李氏の政治姿勢の変遷に不信感を持つ層も確かに存在する。

 しかし、そこに陰湿な印象が生じなかったのは、『街道をゆく 台湾紀行』で作家、司馬遼太郎が触れたように、李氏の精神の核には旧制高校生のような純粋さがあり、それが言動の下敷きとなっていたためだと実感している。