国家主席への就任が決まった2012年当時、西側諸国では、習近平氏とは開明的で、腰が低く、民主主義的思想にも理解のある人物として受け止められていた。しかし、国家主席となってからの言動を見てみると、覇権主義的で、他国に対しても強圧的な態度が目立つ。つい先日は、香港に対し一国二制度を50年間保証していた約束をあっさり反故にしてしまった。なぜ西側諸国は習近平という人物を理解し損ねたのか。彼を理解するうえでカギとなる土地を取材した筆者が、人間・習近平を2回にわたって分析する。(JBperss)
米国のホームステイ先で歓待された習近平
香港が中国に呑み込まれた。
事実上、香港から「高度な自治」「一国二制度」を奪い、中国政府が主導で香港の治安維持、取締りをできるようにした「香港国家安全維持法」が先月末に成立、施行された。
7月1日の香港の返還記念日には、同法に反対する抗議デモが行われると、370人が逮捕され、「香港独立」と書いた旗を持っていたという理由で10人に同法が適用されている。言論の自由も封殺され、香港から自由そのものが消えたと言っても過言ではない。
米国はこれに対して、香港の優遇措置を取り消すなど、中国への圧力を強化している。
日本でも自民党が「習主席の国賓訪日について中止を要請せざるをえない」とする決議を取りまとめている。
1997年に返還されてから、50年は「一国二制度」を維持すると約束されていたはずなのに、習近平国家主席は、諸外国の批判を受けながらも、なぜ、このような措置に踏み切ったのか。
私はかつて、習近平の生い立ちを巡って旅をした。そこには“毛沢東の再来”とも呼ばれて登場した中国の指導者を知る上で、ふたつの重要な場所がある。そのひとつが米国本土にあった。そこで彼の「自由」に対する考え方を知ることができる。
米国の中西部、それも穀倉地帯の中心にあたるアイオワ州。この州境を流れるミシシッピ川の畔の小さな街。そこの子ども部屋に習近平はホームステイした経験を持つ。
マスカティン(Muscatine)という人口2万2000人ほどのその街に習近平がやって来たのは、1985年、彼が31歳の時だった。まだ河北省正定県の書記だった彼は、地元のトウモロコシ視察団の随行幹部として、アイオワ州を訪れている。
「その話を耳にして、マスカティンにお招きできないか、働きかけて実現したの」
ホストファミリーのひとり、サラ・ランディ(Sarah Randy)が話してくれた。その数年前に彼女は友人と中国を旅行して「中国がとても気に入った」というのが理由だった。
「とても礼儀正しく、好奇心が強くて、なんにでも興味を示す青年だったわ! それに、明るくて、笑顔が絶えなかった」
当時の習近平の印象を興奮気味に語る。それもそのはずで、私が当地を訪れたのは2014年のことだった。国家主席に就任してまだ日も浅い頃で、その2年前には就任前の顔見せのため、首都ワシントンで当時のオバマ大統領やバイデン副大統領ら要人と会談したあと、このホームステイ先を再訪している。地元は大騒ぎになったことは言うまでもない。
「ここに来ると家に戻った気分だ。みなさんは私が会った最初の米国人であり、私にとって米国そのものだ」
習近平は、集まった人々を前にそう語ったという。