これは地方の小さな「弁当屋」を大手コンビニチェーンに弁当を供給する一大産業に育てた男の物語である。登場人物は仮名だが、ストーリーは事実に基づいている(毎週月曜日連載中)。
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昭和56年:34歳
入社して間も無く1年になる3月初旬の夕刻、春の昇給に際しての団交があった。
組合員20数名に対峙する会社側の役員は恭平唯一人で、隣には銀行を定年退職した経理部長が座っているだけだった。
一見すると多勢に無勢の交渉も、実質は安藤委員長と恭平の一対一の対決で、委員長以外の組合員はまるでボクシングの試合を観るリングサイドの観客のようだった。
委員長は観客たちからの喝采と信任を得ようと、数々の法外な要求のパンチを繰り出す。恭平は委員長と目を逸らすことなく、前後左右にウェービングしながら聴き入った後で、軽くジャブを放った。
「解った。で、その要求を全て呑んだら、どうなるの?」
「…」
想定外のジャブがヒットし、委員長は鳩が豆鉄砲をくらったような顔をして立ち竦んだ。
「解らないかい。じゃあ、教えてあげよう。その要求を全部呑んだら、会社は一年以内に間違いなく潰れるよ。皆さんは、会社を潰そうとしているの?そうじゃないだろ!だったら、もう少し現実的に、真面目に話し合おうよ」
穏やかに、諭すように、安藤委員長を無視して、観客席の全員に話しかけた。
「おい、儂を馬鹿にしているのか!」安藤委員長がドスを利かせた大声を上げる。
「馬鹿になんかしていない。私は、どうすれば会社が発展し、そこで働く全ての人がハッピーになるか、そのことを誰よりも真剣に考えている。それこそが、私の責務だ!」
「偉そうなことを言うな!お前なんか、直ぐに辞めさせてやる!お前じゃ話にならん。何故、社長が出てこないんだ!」
「私は、社長に全権委任されて、この場にいる。そして、私を辞めさせる権限は、あなたには無い。もし、皆さん全員が、私とでは話ができないと言うのなら、今日の団体交渉は終わりにしよう」
「…」
「いや、本川専務は、今までの専務とは違う。1年間の仕事ぶりを見て来て、よく判った。折角のチャンスだから、昇給のことだけでなく、会社のことを本音で話し合おうよ」
配送部の古参社員で副委員長を務めている吉田の発言を機に、一気に流れが変わった。観客の表情に生気が戻り、緊張感が解けて場が和み、これまでの鬱憤を晴らすかのように会社への不平不満の濁流が堰を切った。