敵の玉砕を隠せ──政宗の思惑
おそらくこの軍記にある通り、小手森城の人々は自ら自害したのだろう。敵軍に略奪させないため、自発的に物資や家畜をも放火・
悲鳴轟く小手森城内に、伊達軍が焼けおちる建築物を抜けると、本丸では自害した侍と、差し違えた男女の死骸がたくさん転がっていたのだろう。焼死体も含めるとその数は不明だが、城内の者は1人残らず死んでいた。
政宗は大内定綱に逃げられたばかりか、無血開城の交渉にも失敗し、さらには貯蓄物資(牛馬や兵糧など)の接収を果たせなかった。おまけに、人質たるべき捕虜の確保すら出来ていない。報告を受けた政宗は、もし敵が自ら進んで自害したという風聞が広まったら、大内方の抵抗はこれからより激しくなると見て、この事実を無いことにしようと考えたのだろう。
そこで、政宗は最上義光に、この惨事は彼らが積極的に行ったものではなく、伊達軍がやったこととして伝えたのではないか。牛馬もみんな死んでしまったので、「犬迄」も撫で斬りにしたと述べることで、過剰な殺意を演出して、これを覆い隠した。
そして家臣にも「これは我々の失敗でない。破壊と殺戮は、わが意地で行ったものである。大戦果を挙げた我々の勝利を見よ。素晴らしい。わたしはこれに満足している」という態度を通した。
相手を生け捕りにできなかった武将が書状で「定めて満足となす」などと個人的な感想を述べて軍事行動の落着を図る例はいくつかある。どれも作戦目的を予定通りに果たせなかった時の言い訳としての側面がある。
死者の数が、第一報が合計1000人以上(侍と奉公人)、第二報が200人以上(侍だけ)、第三報が800人以下(侍と奉公人)へと変わっていったのは、最初あまりの数に政宗も動揺して、過大に試算し、翌日までに落ち着きを取り戻し、侍のみの死亡数をこれぐらいと数え、そしておそらく翌月には合計800人以下であることが見えてきたためだろうと考えられる。
小手森城の落城悲話は、政宗のダークな一面を伝える挿話として有名だが、実際にはそうではなく、政宗自らが流した虚報である可能性が高いだろう。この3年後、大内定綱は伊達家に帰参。政宗から徐々に重用され、子孫は一族格の扱いを受けることになった。