泉岳寺の大石内蔵助像 写真/PhotoNetwork/イメージマート

 歴史上にはさまざまなリーダー(指導者)が登場してきました。その中には、有能なリーダーもいれば、そうではない者もいました。彼らはなぜ成功あるいは失敗したのか? また、リーダーシップの秘訣とは何か? そういったことを日本史上の人物を事例にして考えていきたいと思います

ミイラ取りがミイラに

 元禄14年(1701)3月、赤穂藩主・浅野長矩が江戸城において吉良上野介に遺恨から突如斬りつける事件が起こります。この刃傷により長矩は即日切腹。上野介はお咎めなしとの徳川幕府の判断が下るのでした。浅野家は断絶となり、城地没収の憂き目を見ます。浅野家の家臣らは赤穂城にて開城か切腹か幕府に抵抗するかを議論。家老・大石内蔵助良雄は上手く家臣団を纏め、城を無事に受城使の脇坂安照(龍野藩主)に引き渡すことに成功するのでした。

 残務処理が終わると内蔵助は生まれ育った赤穂を離れ、京都山科に隠棲します(6月下旬)。内蔵助が目指していたのは吉良への復讐ではなく、赤穂藩の再興でした。しかし浅野家旧臣の中にはすぐにでも吉良への復讐を叫ぶ者もおりました。その筆頭というべきが「高田馬場の決闘」(1694年)で名を馳せた堀部安兵衛です。

 安兵衛や高田郡兵衛らは江戸にいて吉良への仇討ちを強硬に主張したのでした。安兵衛ら関東の強硬派がもし勝手な行動を起こし、仇討ちに及べば赤穂藩再興の夢は潰えてしまいます。内蔵助を江戸に下向させ、仇討ちのリーダーとしたい安兵衛らは早く江戸に来るよう内蔵助を書状でせき立てます。

 ですが、内蔵助は安兵衛らの誘いに乗ろうとはせず、浅野大学(長矩の弟)による主家再興を願っていることを告げるのでした。当然、強硬派の安兵衛らはそれでは納得しません。「仇討ちをしなければ、百万石を貰おうとも大学の面目は立つまいという江戸中の噂がある」「赤穂藩の元家臣は必ず仇討ちをするだろうと多くの者が期待を寄せている」などと世間の評判を基にして内蔵助に決断を迫ろうとします。

 江戸激派の主張を宥めようと内蔵助は原元辰・潮田高教・中村正辰らを江戸に遣わします。ところがこの3人は安兵衛らの主張に共感してしまうのです。つまり、ミイラ取りがミイラになってしまったのでした。