ナッジの理論的な裏付け
以上のような事例は一見有効なテクニックのようで、再現可能性に乏しいと思われるかもしれません。実際にナッジ自体は歴史がまだ浅く、確立された理論やフレームワークは多くないですが(※1)、実践面では「問題となる事象や望ましい状態を定義し、ボトルネック(阻害要因)を排除しながら施策を実行する」点で、通常の問題解決アプローチとほぼ同等に捉えて差し支えないでしょう。一方でナッジ施策のユニークな点は、(1)簡単で即効性があること、(2)人間の無意識のバイアスや性質を利用していること、(3)アメやムチに過度に依存しないこと等が挙げられます。下記は「簡単で即効性が認められているアプローチ」の代表例です。
続いて、「人事領域で起こりやすい、無意識のバイアスや性質」の例です。
例えば、研修の無断キャンセル率を下げた事例(2)の場合だと、図1の(2)リマインド、(3)ベンチマーク、(5)良心に訴えるコミュニケーションを組み合わせ、なおかつ事後に出欠状況が可視化されるようにすることで、図2の(C)社会的な手抜きを抑制することに成功しました。各々の要素は行動経済学や認知心理学において実証されている理論やアプローチですが、その組み合わせの妙に「ナッジ施策」の面白さがあるとも言えるでしょう。
※1:OECD(経済開発協力機構)はBASIC、イギリスの内閣府の下部機構であるBIT(通称ナッジ・ユニット)はEASTというフレームワークを提唱しています(下記英文、ともにPDF)。
・https://www.oecd.org/gov/regulatory-policy/BASIC-Toolkit-web.pdf
・https://www.behaviouralinsights.co.uk/wp-content/uploads/2015/07/BIT-Publication-EAST_FA_WEB.pdf
さいごに
人事領域に限らない例ですが、ナッジは確立された理論が多くないが故に、使用法を誤った失敗も散見されます。
(1)ブーメラン効果
「社会規範や良心に訴える」アプローチは、規範自体が曖昧である場合、本来の意図と反対の結果を招くリスクもあります。ある保育園では保育士の残業増加が問題となり、その原因であった無断延長保育を撲滅するために「延長料」を新たに徴収することを決めました。ところが「延長料を払いさえすれば、気兼ねなく無断延長しても良い」という意図しない規範が親の間で形成され、延長料を徴収する前よりも無断延長率が増加してしまいました。
また、ある自治体では省エネを推進するために、各世帯に対して「あなたの電力消費量は、近隣の平均よりも10%多い/少ないです」というようにベンチマーク情報を提供する施策を実行しました。平均よりも過剰消費していた世帯は消費量を減らす傾向が見られましたが、そうでない世帯では「もう少し消費しても大丈夫」と社会的な手抜きが新たに発生したためか、むしろ消費量を増やす傾向が見られ、全体での電力消費は施策の実行前後でほとんど変わらない結果に終わりました。
(2)悪いナッジ=スラッジ
ナッジに関しては人事領域に先行してマーケティング領域でも様々な活用事例がありますが、過度な獲得競争が禍いしたためか、消費者の便益を損ねてしまう事例も散見されます。例えばアカウント情報を変更するたびにメールマガジンの受信設定を無断でオンに切り替えられたり、退会画面において退会すべきでない理由を延々と「逆論破」し続けられたりなどの施策は、供給側によって消費者の選択の自由が歪められており、ナッジの韻を踏んでスラッジ(sludge:直訳ではヘドロ)と呼ばれます。
どちらの場合においても、施策の実行によって対象者の選択の自由が歪められていないか(少なくとも、従業員側がそのように感じてはいないか)、望ましい行動変容を起こせているかは、実行対象を絞ったり比較対象群を設けたりしてABテストを繰り返しつつ、問題があれば軌道修正するか中止する必要があります。しかし上手にナッジを活用できれば、人事関連業務の効率化・ボトルネック解消や、従業員のWell being向上を促し、アメやムチだけに依存しない即効性かつ持続性のあるチェンジ・マネジメントを実現することも夢物語ではないでしょう。
著者プロフィール パナリット・ジャパン 共同創業者/COO トラン・チー 新卒でBoston Consulting Groupに入社後、Recruit Holdings、Googleなどで、新規事業開発・DX(デジタル・トランスフォーメーション)・組織の意思決定支援システムに関わるコンサルティングや事業・営業推進に従事。現在はピープル・アナリティクス専門のBIソリューション、Panalyt(パナリット )の日本法人COOを務める。 パナリットは既存の人事システムやデータファイルに連携するだけで、企業に眠る人データを活用し課題の本質へと導く “組織の人間ドック”です。
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