大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)に展示されている戦艦大和の10分の1スケール模型(筆者撮影)

(佐藤 けんいち:著述家・経営コンサルタント、ケン・マネジメント代表)

 本日4月7日は、戦艦大和の「命日」である。

 戦艦大和は、いまから75年前の1945年4月6日に「沖縄特攻作戦」に出撃、その翌日の4月7日、沖縄に到着することなく米軍の総攻撃によって鹿児島の坊ノ岬沖で轟沈、その5年に満たない短い一生を終えたのである。

 今回は、戦艦大和が「特攻」によって花と散っていったことを、後世に生きるわれわれがどう受け取めるべきなのか、さまざまな面から考えてみたいと思う。

大東亜戦争末期の特攻作戦

 知覧といえば特攻というのが、一般的な常識ではないだろうか。大東亜戦争末期、特攻隊の基地があった。帝国陸軍の特別攻撃隊の基地である。

 私もいまから15年前のことだが、屋久島にいった帰りに知覧に寄ってみたことがある。「特攻の母」で有名な映画『ホタル帰る』が話題になってから、しばらくたってからのことだ。

 知覧特攻平和会館に展示されているのは、若くして散っていった特攻隊員たちの写真や遺書の数々だ。読んでいると、思わず涙がとまらなくなった。目前に迫った死を前にした思いがにじみ出る文面に、不条理な状況に置かれた人間の苦悩と、人間の命のはかなさを思う気持ちと同時に、厳粛で崇高なものを感じてしまうのだ。

 だが、特攻は知覧だけだったわけではない。知覧は帝国陸軍特別攻撃隊の基地だったのであり、もともと特攻が発案され開始されたのは帝国海軍であった。かの有名な「神風特別攻撃隊」である。1944年(昭和19年)10月から開始された。陸海それぞれに特攻隊があったのだ。

 海軍の特攻基地は、おなじく鹿児島県の鹿屋(かのや)航空基地にあった。鹿屋は大隅半島にある。知覧のある薩摩半島とは、鹿児島湾を挟んで対岸である。全国的な知名度は知覧に及ばないが、規模的には鹿屋のほうが大きかった。

 さらにいえば、特攻は戦闘機によるものだけではなかった。人間爆弾や人間魚雷と呼ばれた兵器さえ開発され、投入されていたのである。

 人間爆弾といえば、「桜花」(おうか)である。帝国海軍が開発し、戦争末期にじっさいに使用されたロケット推進式小型高速機による人間爆弾のことだ。ロケットの誘導技術が未完成であったため、爆弾に人間が搭乗して誘導するというアイデアが生まれたのだ。