翌593年、推古天皇は聡明で知られる太子を摂政にした。蘇我馬子の専横を抑えるために、補佐役に抜擢したのである。もっとも、女帝と馬子は晩年には恋愛関係となり、太子は人間関係に苦しんだとも推察されるが、それは別の話。
太子の下で神・仏・儒の3宗教が調和
行政官として太子が取り組んだ課題は、2つ。
1つは内政で、文化興隆に力を注いだ。軸は仏教推進である。太子は、四天王寺、斑鳩宮、法隆寺など、多くの寺院を建築したことで知られる。仏法僧を保護した。
同時に神道の尊重も重視している。だから蘇我・物部の争いは、負けた者は皆殺しにする宗教戦争にはならなかった。
また、太子自身は学者でもあり、仏教だけでなく、儒学の高度な知識を得ていたこともわかっている。当然、儒学の輸入と、儒者の保護にも努めた。
太子の下で、神・仏・儒の三者は調和するのである。
ちなみに、今でも仏教諸派は教義に細かい違いがあり、あらゆる宗派が唱えられるお経が無いらしい。日蓮宗以外の宗派は、「南無阿弥陀仏」は言えるらしいが。だが、全仏教諸派に神道と儒学のすべての諸派も加え、「聖徳太子は偉い!」だけは言えるのである。当然、太子の事績である。
日本は宗教戦争を7世紀に終わらせたと言えば、外国人は驚く。悲惨な宗教戦争を経験していないのだから、ノンキな民族であるのも頷けよう。
常に不穏だった朝鮮半島
外政では、朝鮮問題に忙殺された。
大和朝廷が成立して以来、東国よりも半島情勢の方が常に不穏であった。当時の朝鮮半島は三国に分かれて抗争していた。北には、満洲の地から南下してきた高句麗が、今の北朝鮮の部分に勢力を張る。今の韓国の西部には百済、日本の属国である。東部には新羅、叛服(はんぷく)常無き国だった。常に周辺諸国の勢力関係を見極め、大陸国家の支援が得られると百済や日本に居丈高になり、日本が強く出ると頭を下げて許しを乞う。
さらに、三国時代以来、ようやく統一王朝が成立したと思われた中華帝国の隋も、安定していなかった。皇帝の煬帝は何度も遠征を行ったが、高句麗に敗北する体たらくだった。