そうした中、太子は600年に新羅に征討軍を送っている。朝鮮出兵である。新羅はすぐに降参した。

 なお、この年に遣隋使が送られたと主張する歴史家がいるが、根拠は『隋書』である。『日本書紀』には記録が無い。なぜ自国の正史よりも外国の正史を優先するのかわからないが、仮にこの時に遣隋使が送られていたとしても、何の歴史的意味もない単なる外交使節である。

 余談だが、日本人歴史学者には、おかしな習性がある。『日本書紀』にしか載っていない事実は認めないとしながら、中華帝国の正史の記述は無批判に信じるのである。中華コンプレックスである。『日本書紀』の実証性を批判する論者が、「魏志倭人伝」如きを必死に読み込むさまは滑稽である。

 そもそも「魏志倭人伝」とは何か。中国の三国時代を記録した正史である『三国志』の中の『魏志』の中の「東夷伝」の中で、日本について書かれているであろう部分である。こんなもの、近代史家の感覚で言えば、史料価値ゼロである。

 たとえ話で、考えてみよう。2000年後の世界に、日本に関する記録が残っていなかったとする。唯一例外が、『プラウダ』の日本に関する「まとめ記事」だったとする。そんなものに、何の価値があるのか。『プラウダ』で悪ければ、『人民日報』で良い。『プラウダ』や『人民日報』は、まだいい。外形的事実は間違っていないし、固有名詞を正しく記述するくらいはできるので、そこは信用できる。しかし、「魏志倭人伝」の通りに向かえば、邪馬台国は海中に没してしまう。中華帝国正史の信憑性など、『明史』に至っても同列なのだから、まともな歴史学者は参考意見程度にしか信用しないものだ。

 それに引き換え、我が国の『日本書紀』は、およそ一国の正史とは思えないほど、プロパガンダをする気が無い。平気で「一書に曰く」などと異説を載せる。どちらが信用できるか、一目瞭然ではないか。

十七条憲法こそ世界史最古の憲法典

 さて、『書紀』は太子の事績を詳しく載せる。日本人なら小学生でも知っている代表的なのが3つ。603年の冠位十二階、604年の十七条憲法、607年の遣隋使である。

 冠位十二階の制は、その後に何度も修正され、最終的には701年の大宝律令で完成する。天皇を頂点とする国家秩序の構築である。