押井守監督のアニメ映画『スカイ・クロラ』には、戦闘機に乗って戦うキルドレと呼ばれる子供たちが登場する。彼らは、ただ与えられた日常を生きている。行為の意味が決定的に欠けていて、無意味な悲劇だけが積み重なっていく。気鋭の哲学者、岩内章太郎氏はその状態を「メランコリー」と呼ぶ。「ニヒリズム」と「メランコリー」はどう違うのか? 岩内氏が提示する、「生きること」と直結した哲学とは。(JBpress)

(※)本稿は『新しい哲学の教科書』(岩内章太郎著、講談社選書メチエ)の一部を抜粋・再編集したものです。

「ニヒリズム」

 ニヒリズムという問題現象を人々のあいだに広く観察できるようになるのは20世紀中盤以降、すなわちポストモダンの時代からだが、私たちは、ニヒリストの典型をある19世紀の小説に見出すことができる。

 ツルゲーネフの秀作『父と子』(1862年)である。この小説では、農奴解放前後の19世紀ロシアを舞台にして、伝統的な貴族文化と新しい世代の文化の摩擦が描かれている。大学を卒業して、久しぶりに故郷の田舎に帰ってきたアルカージイは友人のバザーロフも一緒に連れてくる。

 バザーロフはあらゆる形式のロマンティシズムを蔑み、伝統的な貴族文化の内実は空虚だと考えている若者で、アルカージイも彼の影響を受けている。貴族文化のなかで育ったアルカージイの父親ニコライ・ペトローウィチと伯父パーヴェル・ペトローウィチはバザーロフの自由奔放な言動に戸惑い、バザーロフがいない食事の席でアルカージイにバザーロフとは何者なのか、と尋ねてしまう。

「バザーロフが何者ですって?」アルカージイは苦笑した。「伯父さん、なんなら、あの男が何者か、教えてあげましょうか?」「うん、教えてくれよ、アルカージイ」「彼はニヒリストです」「ええっ?」とニコライ・ペトローウィチはききかえした。

 パーヴェル・ペトローウィチはバターの一片をつけたナイフをもちあげたまま、凍りついたようになってしまった。「彼はニヒリストですよ」とアルカージイはくりかえした。「ニヒリスト」とニコライ・ペトローウィチはつぶやいた。

「それは、ラテン語の nihil つまり無から出た言葉だな。そうとしかわたしには考えられん、とすると、この言葉は......なにものもみとめぬ人間......という意味かね?」「なにものも尊敬せぬといったほうがいいよ」とパーヴェル・ペトローウィチはいって、またバターをぬりはじめた。「何事も批判的見地から見る人間ですよ」とアルカージイはいった。

「で、なにかね、それはいいことかね?」と、パーヴェル・ペトローウィチがさえぎった。「人によりけりですよ、伯父さん。それでいい人もいるし、ひどくわるい人もいます」(ツルゲーネフ1998、36~37頁)