例えばいま話題になっている韓国との関係について考えてみましょう。私個人の意見としても、国と国との約束を平気で違えてくる韓国には毅然とした態度を示すべきだと思うし、貿易管理に係るホワイト国からの除外についても理は日本にあると考えています。そして、国と国とが対峙する場面では、国内で世論が割れていると相手に付け込む隙を与えることにもなるので、一枚岩になることが求められるのも分かります。ただ一方で、嫌韓かその反対か(韓国側から見れば反日か親日か)、という単純な二項対立のどちらかに身を置かねばならない状態に窮屈な感じを覚える一般人が多いのも事実だと思うのです。

「あいちトリエンナーレ2019」では「表現の不自由展・その後」と題された一部のプログラムで、慰安婦問題や天皇を扱った展示に批判が殺到し、展示そのものが中止になりました。この問題でも同様です。報道を見る限り、私も、これが芸術かと思わせるような品のない作品の数々に吐き気がしますし、従って、この展示に反発した世論の動きにも共感します。

 と同時に、「不適切な展示だ」として事務局に多数の抗議電話が殺到するくらいならともかく、中にはテロを示唆するような電話もあったという反応を耳にすると、自分とは異なる意見・価値観に対する異常なまでの不寛容さに、正直、少々不気味な感じも覚えるのです。

 米中の対立、香港での先鋭化したデモなど、世界が不寛容な二項対立の数々に覆われつつある中、あたかも「弱い個をみんなで追い込んで天上に追いやってしまった『天気の子』の世界」のように、自らが正義とばかりに反対側を集団で抑え込もうとする「同調圧力」攻撃が世の中に満ちてます。そこにある種の息苦しさを感じている人は少なくないのではないでしょうか。

れいわ新選組躍進の背景にも「同調圧力」への違和感が

 思えば、7月の参議院選挙で躍進した「れいわ新選組」と「NHKから国民を守る党」も、世の中がなんとなく「暗黙の前提」とし、強要してくるもの(既存の政党政治の仕組み)に対する強力なアンチテーゼを打ち出していました。「れいわ新選組」は、世論の大勢が「消費税率アップも仕方ないよね」という感じになっている中で、あまり現実的とは思えませんが、「消費税ゼロ」を主張しました。「NHKから国民を守る党」は、当たり前のように思われているNHKの受信料制度に公然と異を唱えました。両党に予想以上の票が集まったのは、その主張への賛否そのものと言うよりも、世の中の同調を強いるような雰囲気に「どうにかして楔を打ち込みたい」と潜在的に感じた人たちがなびいていった結果ではないかと思うのです(念のためですが、私自身、両党の主張に、ほとんどシンパシーを感じておらず、その伸張を快くも思っていません。上記は、実際の「現象」を自分なりに理解しているだけです)。

 そう考えると、最近の世論の流れが上手く説明がつきます。韓国の問題にしても、あいちトリエンナーレの問題にしても、国民が一致団結して向き合うべき問題ですが、その同調圧力が極めて大きいため、そこにある種の嫌悪感も付きまとう。そうした気分への政治面での現れが、「れいわ新選組」や「NHKから国民を守る党」への投票行動につながった。『天気の子』は、同調圧力に従うことだけが本当に答えなんだろうかという問いかけを改めて突き付けてくれた。その問いかけと奇跡的なクライマックスの展開によって観客は共感や爽快感を得ているのではないでしょうか。

 誰もが切なさを感じずにはいられない鉄板のテーマをベースに、現代人が潜在的に抱いている閉塞感にスパッと切り込むメッセージを埋め込んだ『天気の子』。ヒットするべくしてヒットした作品、そしておそらくは大ヒットする作品と言えるでしょう。