私たちは様々な工夫によって「記憶」の定着を図っているが、時間とともに風化してしまう。だがその昔、古代ギリシアで生まれ、抜群の効果を発揮した「記憶術」があったことをご存じだろうか。編み出したのは、世界で最初の職業詩人。彼はどのような方法で記憶の達人になったのか。西洋建築・ルネサンス思想史の専門家、桑木野幸司氏が歴史の中の記憶術の謎にせまる。(前編、JBpress)

(※)本稿は『記憶術全史』(桑木野幸司著、講談社)の一部を抜粋・再編集したものです。

記憶の達人になる方法

 記憶は場所と強く結びついていることが知られている。いや、場所だけでなく、その記憶情報を取り巻いていたコンテクストに、驚くほど依拠しているのだ。だから、幼いころに馴染んでいた匂いや味に再び接した途端、数10年ぶりに記憶が鮮明によみがえることだってあるし、何か特別な出来事がおこったときの天候、あたりの雰囲気、その時の自分の感情に至るまで、克明に思い出せるはずだ。

 場所は、そういった諸々の環境的要素をまるごと包み込む器なのだ。よく使うアプリやスーパーでいつも買う商品は、それが置かれている場所とともに、ある種の映像データとして我々の記憶に収まっている。だから、物理世界のほうを変化させると、記憶内面との対応関係が断ち切られてしまうことになる。

 そういった記憶の特性を最大限に活用し、その力を爆発的に増大させる知的方法論が、西欧世界ではある時期まで連綿と継承されてきた。それも妖しい薬物を投与したり、危険な外科手術にうったえたりすることなく、時間をかけて努力さえすれば誰でも記憶の達人になれるというのだから、まさに夢のような方法だ。その名をずばり、「記憶術」という。