知識の伝達や継承は「記憶」がなければ不可能だ。しかし記憶は時間とともに風化してしまう。前回は、古代ギリシアの職業詩人が効果抜群の「記憶術」を編み出したエピソードを紹介した。引き続き、西洋建築・ルネサンス思想史の専門家、桑木野幸司氏が歴史の中の「記憶術」の具体的な方法をお伝えする。(後編、JBpress)
(※)本稿は『記憶術全史』(桑木野幸司著、講談社)の一部を抜粋・再編集したものです。
頭の中に<場所>をつくる
(前編)大事故を生き延びた詩人が記憶の達人になれたワケ
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/56609
「記憶術」の要諦原理は、<場所>と<イメージ>と<秩序>である。術を実践しようとする者は、その準備作業として、まず頭の中に、情報の器となる仮想の空間を設定しなくてはならない。覚えようとする内容とは関係なく、ひとまず情報の容れ物を頭の中に作ってしまうのだ。
具体的には、家屋や広場、街路などといった、ある程度の空間的広がりをもつ建物や場所をモデルとして選ぶのだが、できることなら、普段から見知っているなじみの建築がよいとされる。現代なら、たとえば自分の家や、勤め先のオフィス、通っている学校、よく利用する駅舎、足しげく訪れる図書館やスーパーなどが理想的だ。あるいは、自分の家から学校や職場までの道のりでもいい。
ある建築を器として選んだのなら、その建物の入り口・玄関から、廊下や個々の部屋、階段に至るまでを、相互の位置関係も含めてしっかり記憶し、さらには壁の色や窓の位置、柱の数、家具・調度品や置物など、とにかく空間を分節する際の目印になりうるものは、片端から脳内に刻みつけてゆく。
空間を細かく分割すればするほど、それだけデータの収蔵能力が増えることになる。このような仮想建築・空間が記憶の「ロクス(場所)」とよばれるもので、「記憶術」を効果的に運用するためには欠かせない要素である。