しかし、幕末の日本には、まだ「博物館」というものは存在しませんでした。
『開成をつくった男、佐野鼎』(柳原三佳著・講談社)の中には、1860年(万延元年)に遣米使節として初めてアメリカに渡った77人のサムライたちが、生まれて初めて博物館に足を踏み入れたときの愉快なシーンが登場します。

 このとき、彼らが立ち寄ったのは、イギリス人のジェームズ・スミソンが、「知識の向上と普及のために使ってほしい」と、全財産をアメリカに寄付し、それを基金として作られた「スミソニアン博物館」でした。

スミソニアン博物館(筆者撮影)
博物館の内部(筆者撮影)

<さらに奥の広い室内へ進むと、多数のガラスケースが設置され、その中にはおびただしい数の虫や小動物の標本が入れられていた。頭上には、鳥や獣の、まるで生きているかのような剥製が飾られ、今にも動き出しそうだ。虎は大きな口を開け、牙を剥いてこちらを睨んでいる。魚や蛇、ヤモリ、カエルなど水中の動物はアルコールの詰まった瓶の中に漬けられ、トドやアザラシなどは乾燥された状態で並べられている。
「いったい、ここは何なのだ? 見世物小屋とは少し趣が違うようだが・・・」
 皆、驚きの目でそれらの展示物をじっくりと観察しながら、歩みを進める。>
(『開成をつくった男、佐野鼎』より)

「見世物小屋」という表現には思わず笑いがこみ上げますが、これは実際に遣米使節の従者の日記に出てくる言葉です。もっとも、当時の日本には「博物館」なるものが存在しないのですから、記述には苦労のあとが見て取れますが、「見世物小屋とは趣が違う」と評しているあたりは、さすがです。

「これは、人の干物ではないか!」

 さらに、複数の日記を読み込んだ私は、本の中にこんなシーンも書き入れました。

<「こ、これは、なんと、人の干物ではないか!」
 ガラスケースを覗き込んだ玉蟲が、一瞬、声を上げ、顔をしかめた。
 目の前には茶褐色に変色したミイラが、子供のものを含め三体並んで横たわっている。
 鼎はその横に掲げられている英文の説明書きに目を通した。
「なんとこの死骸は、千年も前のものだと書いてありますぞ」
「な、なんと、千年ですか? わが方の奈良時代にあたりますな」
「うむ、まだ肉や髪も残っているではありませんか」>
(『開成をつくった男、佐野鼎』より)