佐野鼎は幕臣ではなかったのですが、この使節団に、いわゆる学者枠で「従者」の一人として参加しました。アメリカが迎えに来た軍艦に乗り込んで太平洋を横断し、その後、パナマからは蒸気機関車でアメリカ大陸の東側に移動(当時パナマ運河は開通していませんでした)。そして、再びアメリカの軍艦でワシントンに向けて北上し、ブキャナン大統領と条約書を交わし、その後、フィラデルフィア経由でニューヨークへと向かったのです。

ニューヨークでも大歓迎を受けた使節一行

 6月17日、午後2時、一行が乗る艦船・アライダ号は、マンハッタン島の南に位置するキャッスル・ガーデン前に投錨しました。現在、この場所は「バッテリーパーク」と呼ばれています。

バッテリーパークの要塞(筆者撮影)

 写真の砦は、佐野鼎たちがこの地に上陸したときからそのままの姿で残っています。自由の女神はまだありませんでしたが、彼らは当時、ロンドンの次に栄えていたニューヨーク港の賑わいに息をのんだことでしょう。

 港口には、世界各国の軍艦や商船が数多く停泊しており、街が見渡せないほどのマストが林立していました。湾の中央に浮かぶガバナーズ島という小島には、要塞や石造の砲台が設けられ、アライダ号がちょうどその前を通過するとき、西端の砲台から祝砲が鳴らされたそうです。

1860年当時のニューヨーク

 キャッスル・ガーデンには、すでに馬車が30ほど待機しており、一行はこれに乗って大通りの中央を進みました。警護は厳重で、多数の歩兵が初めは横一列で、その後は縦一列になって行進します。騎兵隊の馬はとてもよく調練されていて足並みよく、乱れもなかったそうです。

 ブロードウェイの商店はどこも店を閉じ、日の丸と米国の国旗を飾り、『ウエルカム・ジャパニーズ・エンバシィー』と書かれた看板をあちこちに掲げていました。そして、老若男女を問わず白いハンカチを振って迎えてくれたそうです。佐野鼎は馬車からその群衆を見て、『江戸の山王権現や神田明神の祭礼で練りものを見物しているかのようだ』と日記に記しています。

ニューヨークでのパレードの様子(『加藤素毛世界一周の記録』より)

 日本人使節を迎え入れたニューヨークでは、街を挙げて彼らを歓迎し、終盤には大舞踏会まで開かれました。招待客は約7500人。1人10ドルの入場券は1万枚以上売り出され、一晩で飲まれたフランスワインは5000本余り、シャンパンは約9000本にも上ったそうです。