「1年のときに左肩を手術してから、高校生活の残り約2年間ですか。プロに行きたいだなんて、口が裂けても言えなかったですよ。全然投げられないんですから、口にするのが恥ずかしいくらいでした」
主将を任されたものの、3年生の最後の夏、平石の背中にあったのはレギュラーではない「13」の番号だった。
「(プロに行く選手は高校時代エースで4番みたいな選手が多い時代だったから)プロは無理だろう、って思う人が多かったと思うんですよね。僕もそう思っていたし・・・でも夢は夢ですから。諦めたくなかったし、中学校のころの自分を見せられれば、とも思っていました」
その後、同志社大学に進み、ここでも主将を任された。プレーでも日本代表に選ばれるまでになり、トヨタ自動車へ就職。野球部では都市対抗に出場するなど、中心選手として活躍しプロへの扉を自らの実力でこじ開けた。
それでも、現役生活での通算成績は122試合に出場して37安打。思い描いたようなものではなかった。
プロの世界に「平等」なんてない、絶対に
現役時代のあるときのことだ。自分がそれまで一番大事にしていたバッティングのポイントを、指導者の再三の指摘で変えた。
「変えたらあかん、あかんって思いながら、でも変えたんですね。結局、結果は出なくてものすごくもどかしい数年を送ることになりました。なぜあそこでブレてしまったんだろうって後悔をして・・・僕の野球人生ってその繰り返しなんですね」
平石は「その指導者が悪い、というつもりはないし、思ってもいない」と念を押しつつ、「プロは、自分の責任は自分で取らなきゃいけないんです」と続けた。
ブレてしまった選手時代。難しいのは指導を受け入れなければ使ってもらえない可能性だってあることだ。それを平石は身をもって知っている。
「この世界に平等ってないんですよ。同じ回数のチャンスがどの選手にもあるなんてことはなくて、たとえば高校から注目されているような選手のほうがチャンスはあると思います。そういう厳しい現実のなかで、指導者の立場からすれば、チームを強くするとか、その選手がいい方向に向くにはどうしたらいいかってみんなが考えてると思うんですね。
でも、選手も考えるじゃないですか。だからときには(選手の話を聞いて)『うわ、遠回りやな』と思っていたとしても、ものすごく考えてきたことが分かるんだったら尊重してあげるのも大事だと思うんです。だからこそ、指導者からの一方通行ではダメなんですよね」