酒づくりは、伝統産業と位置付けられており、我々が日頃飲み慣れている芋焼酎も数百年を越える伝統があるように思いがちだ。ところが実際は、明治期以降、とりわけ戦後になってから広く流通するようになったことを知る人は意外に少ない。しかも、それが鹿児島県の一企業の努力によって成し遂げられたことは、なおのこと知られていない。
そこで今回は、日本の焼酎文化の基礎を築き、さらには畜産業の変革とそれを通じた世界の食糧問題解決にも大きく貢献しようとしている河内源一郎商店グループの山元紀子氏にお話を伺うことにした。
日本の焼酎文化の父、河内源一郎
河内源一郎商店グループは、鹿児島県霧島市に拠点を置き、河内源一郎商店、錦灘酒造、霧島高原ビール、バレルバレー・プラハ&GEN、源麹研究所など多くの企業群からなる。創業家の山元正博氏・山元紀子氏がグループを牽引しており、紀子氏は、自ら数社の代表取締役を務めつつ、鹿児島県経済界のリーダーの一人として、県の創生にも尽力している。
河内源一郎商店グループとは、そもそも、どういう存在なのだろうか?
「始まりは明治時代です。当時、鹿児島県では清酒用の黄麹で芋焼酎を製造していました。しかし黄麹で製造すると、焼酎の味が悪く、腐敗しやすいなど品質も安定せず、商品としての流通は困難でした。大蔵省に勤務していた祖父の河内源一郎は、この問題を解決するために研究を重ねました。そして、まず黒麹菌の分離に成功し、さらに、その突然変異でできた白麹菌を発見しました。『河内白麹菌』です。
この河内白麹菌の発見によって、現代へと続くまろやかで薫り高い焼酎の製造が可能になったと言われています。やがてこの麹菌を本格的に普及するために源一郎は退官します。そして設立したのが河内屋(今の河内源一郎商店)だったのです。