第2次ポエニ戦争後、任期1年の最高政務官になったハンニバルは、貴族の権力を大幅に削って民主化を進め、財政改革にも手を付けます。これらの改革が奏功し、カルタゴは徐々に繁栄を取り戻していくのです。
もっともハンニバル自身は、1年後に最高政務官の任期が終わると、反対派に追い詰められ、ついにはセレウコス朝シリアに亡命することを余儀なくされてしまいます。
一方で、カルタゴの再興を目の当たりにしたローマは、猛烈に警戒心を強めます。さらに当時のローマの支配層にとっては、どれだけ軍事的成果を上げたかが極めて重要な問題になっていました。軍事的な成果が、国内での地位の向上に結び付いていたからです。
そうした情勢の中、カルタゴはローマにとって格好の標的になったのです。
カルタゴの殲滅を狙ったローマは、ついに前149年には第3次ポエニ戦争を仕掛け、カルタゴを滅ぼしにかかります。ローマ軍は、文字通りカルタゴ市を破壊し尽くしました。カルタゴのフェニキア人は殺されるか奴隷になるかしか道はありませんでした。ローマ軍は、カルタゴが再興することがないよう、その地に大量の塩を撒いたと言われています。ローマ軍の仕打ちはそれほど苛烈なものでした。
カルタゴが滅ぶと、交易拠点を失ったほかのフェニキア人の都市国家も急速に衰えていきます。それに代わってローマは、西地中海を支配する大帝国へと成長していくのです。
一連の戦争で、カルタゴに関する文献史料はあらかた失われました。したがって研究はきわめて困難でありますが、今後、考古学遺跡の発掘で、もっと多くのことがわかるのではないかと期待されています。
フェニキア人の遺産
人類は、定住することで文明を築きました。その文明は、移動する人々によって各地に伝播しました。その役割を請け負った民族の1つがフェニキア人でした。
フェニキア人は、ビジネスによってさまざまな地域を結び付け、その文明と文明をつなぎ合わせました。彼らが築いた交易ネットワークは、北海、地中海、紅海、さらにはアフリカ西岸に至る巨大なものです。この広範な地域に、各地の文明を伝え広げていったのですから、その影響力は絶大です。
これらの地域は、後代にヨーロッパ人とイスラーム教徒によって統治されます。ということは、双方の文明の形成にはフェニキア人の文化も貢献したはずです。
ローマ人は、カルタゴの街を焼き尽くしました。主要な史料も灰と化しました。そのため、勝者であるローマ中心の歴史のみが後世に伝えられることになってしまったのです。現代の私たちが学んでいる世界史も、その例外ではありません。
しかし、もしもフェニキア人という「交易民族」の活躍がなければ、地中海世界の結合はもっと違うものになっていたはずですし、イスラーム世界の文化もまた現在とは違ったものになっていたと思われます。
歴史の彼方に消え去ってしまったフェニキア人ですが、われわれは彼らの果たした役割もっと知り、深く学ぶべきなのです。