実はこのケースは、医師が安楽死として届け出ていないケースだった。安楽死審査委員会にも報告されていない。担当医師は、「安楽死ではなく、緩和医療を行った」と理解しているために届け出なかった事例なのだ。

 オランダには、安楽死ではなく、モルヒネを通して病状管理を強めることをよしとする医師が少なくない。その結果、患者の苦痛を緩和するためにモルヒネを多量に使用して死に至らせてしまうケースがあるのである。これは調査委員会から「グレー」として指摘されている行為だ。

 オランダが安楽死法を立法した背景には、このようなグレーなケースを透明化する目的があったのだが、そこが十分機能していないのだ。

 前述のように、オランダでは、安楽死法成立以前から医師の手で安楽死が行われていた。そのため医師たちは、緩和医療には積極的に取り組んでこなかったという歴史がある。

 安楽死法ができてから、安楽死の手続きが煩雑なため、訴追されるのを恐れた医師たちや医療関係者が積極的にホスピスを増やし、遅ればせながら緩和医療の取り組みが始められた、というのが実態だ。そのためモルヒネの適正使用についての医師の認識も遅れていると言われている。

医師の判断だけで「尊厳死」

 それでは延命治療を控えたり中止したりする、いわゆる尊厳死についてオランダではどう評価されているのだろうか。

 日本では、2006年に富山県射水市の病院で、外科医が7人の患者から人工呼吸器を取り外した事件があった。結局不起訴になったが、これを契機として議論が起こり、患者の明示的な意思表明があれば、人工呼吸器の取り外しをした医師の責任を問わないという尊厳死法が国会に提出されようとしている。

 私はかつて、オランダでの生命維持装置の取り外し・中止に関して医療関係者に質問したことがある。

 彼が答えたところによると、オランダではそれは通常の医療の一環で、医師が判断さえしていれば全く問題にならないそうである。もちろん家族に説明し承諾を求めるが、家族はおおむね医師の判断を尊重するという。

 日本では大問題になるのに、オランダでは全く問題にならいのはなぜなのだろうか。一つの理由は、オランダの医師が国民から信頼されているからだ。それだけ家庭医制度は国民の生活に根差したものになっているのである。

 もう一つはオランダでは「脳死=人の死」の考えが定着しているからだろう。日本では「脳死=人の死」ではない。患者に臓器提供の意思がある場合にのみ、脳死判定を行うことができる。死を決めるのは医師でない。日本の臓器移植の始まりの際の不幸な事件(札幌医大心臓移植事件)が日本の医師の信頼を失わせたのかもしれない。

 さらに言うなら、731部隊による人体実験が隠蔽されていた事実も大きいと思う。その結果、ナチスの医師たちの犯罪が徹底的に裁かれたドイツと異なり、医療に対する社会の監視システムが日本には生まれなかった。

 日本の医療は、高度に専門化、分業化、技術化した結果、医師の「匿名化」まで進んでしまった。この医療システムにおいては、患者が自らの医師を人格的な相手として見いだすことは不可能なのではないだろうか。

 家庭医制度が根付き、医師に自らの死を委ねることができるオランダでさえ、安楽死の実施状況には小さな綻びや揺らぎが見える。

 医師への信頼感が生まれにくい日本の医療システムの中では、高齢化の中でいかに安楽死を望む人が増えようとも、制度として取り入れるのは容易なことではないだろう。

『終末期医療を考えるために-検証 オランダの安楽死から』(盛永審一郎著・丸善出版)

 終末期医療に関心のある読者は以下の資料を参照されたい。丸善ホームページ内『世界の終末期医療の最新データ(盛永審一郎)』https://www.maruzen-publishing.co.jp/info/n19241.html

(注1)安楽死法。オランダでは、30年の議論の末2002年に、患者の自発的な意思があること、治療法のない病気であること、痛みが耐え難いことなど6つの要件を満たせば、安楽死を選ぶことができる法律が施行された。安楽死の希望者は、「家庭医」などとよく相談をし、さらに第三者の医師もそれを確認すると安楽死を実行に移せる。医師が致死薬を打つ『積極的安楽死』、医師から処方された薬を飲む『介助自殺』がある。2018年の安楽死審査委員会報告書では、2017年の安楽死の届け出件数は6585件(内訳6306が積極的安楽死、250が介助自殺, 29が両方)で、総死亡者数150,027人の4.4%だった。オランダのほかに、ベルギー(2002)、ルクセンブルク(2009)、そしてカナダ(2016)にも同様の法がある。

(注2)安楽死審査委員会。安楽死法第3章に基づいて設置された安楽死の裁定を行う公的機関。毎年年次報告書を発行。安楽死を行った医師の届け出書類を審査して、注意深さの要件が適切に守られたかどうかを審査する。

(注3)調査委員会(レメリンク委員会)。1990年にオランダ政府によって設置された調査グループで、安楽死法が良好に機能しているかを調査するために5年ごとに死亡診断書に基づく全国的規模での調査を行う委員会。

(注4)一般医ともいう。オランダの医療は家庭医制度から成り立っている。この地区にはこの家庭医となっている。1人の家庭医が2800人ぐらいの住民を担当している。まず不調があれば、家庭医に診てもらう。薬だけで治る病気は、家庭医が診るが、それ以上の場合は専門医を紹介してくれる。その専門医での治療が終わるとカルテは家庭医のところにバックされる。つまりその人の体を何十年と管理してくれるシステムである。健康面だけでなく、心の相談、教育何でもありだ。だから患者との間に信頼関係がある。最後はこの先生にというわけである。オランダの安楽死の担当医は2017年においても86%が家庭医(ホームドクター)である。