冷戦期は超大国の威信をかけた代理戦争の様相を呈し、台湾と中国の「2つの中国」問題ではお互いの国が相手をオリンピックから追放するようIOCに宣言。アパルトヘイトに対する抗議としてのボイコットによって南アフリカは二大会連続でオリンピックに招待されないことが決定され、競技のテレビ放映がはじまるとその放映権料が莫大な収入となって、IOCが企業体へと変化していき──とそこに巨大な金と権力が集中するのならば、政治から切り離すことはできないという単純な事実が歴史を読み込むことでよくわかってくるのだ。

開催は本当に利益になるのか?

 そうした大きな力の集中するオリンピックを開催することは、果たして本当に利益になるのだろうか。利益になる面もあるが、それ以上にリスクも大きい。本書ではオリンピックを「祝賀資本主義」と称してオリンピックの特徴を説明している。非日常的なイベントの開催によって通常の政治のルールは一時停止され、公の機関、開催地の納税者がリスクを負い、楽しい浮かれ騒ぎの裏側で、一部の民間企業が利益をごっそりともっていってしまう。

 そのうえ、『総じてスポーツ経済学者が結論するところでは、オリンピックの開催地になった都市に、経済効果についての調査研究によって保証されている利益がもたらされることはない。』というほか、オリンピック開催のために作られた施設の多くが、その後使われずに取り壊され、中国では市民がはした金で立ち退きを迫られ、ブラジルでは格差が悪化し──とさまざまな不利益も生じてきている。もちろんオリンピックとはある種の祭典であり、何も利益のためだけに行われるものでもないわけだが、それにしても現在の諸々は手際が悪いというほかない。

本コラムはHONZの提供記事です

 それでも開催国への立候補が絶えないのは、オリンピックの経済効果について誤った予測が多く出ていることも関係している。予測の多くは依頼を受けて調査する経済コンサルタントによって作成され、誤った経済成長への理想がまかりとおり、それを元にして人々は夢を抱く。すると政治家は、腐敗の温床となりえる見栄えのいい野心的な計画を積極的に推し進めるようなる。そして納得させるためだけの空想の見積もりを出してまで騙し騙し物事を前に進めていくわけだ。

 だが、そうした状況も正しく認識されつつある。2024年の夏季オリンピックの招致レースでは選考の途中脱落が相次ぎ、立候補都市はロサンゼルスとパリのみとなって、96年ぶりに24年と28年の開催地を同時決定することになった(24年がパリ、28年がロサンゼルス)。