ゼロ戦に用いられた技術には海外で開発されたものは少なくない。プロペラは米国ハミルトンスタンダード社からライセンスを受けたものだった。

 太平洋戦争で活躍したゼロ戦は、三菱重工業が開発し製造したものだったが、実は外国の技術がかなり使用されていた。

 当時の日本は航空技術で急速に力をつけており、海外の戦闘機に対抗できる機体を自力で作れるようになったところだった。しかし、ありとあらゆる搭載機器や部品を国産技術で作り上げるまでにはまだ至っていなかった。

 例えば、機関砲はスイスのエリコン社のものをライセンス生産、その機関砲の狙いを定める照準機はドイツのオイゲエ社のものをコピー。無線方位測定装置は米国のフェアチャイルドのものをコピーといった感じであった。

 エンジンは日本で設計したものだったものの、米国のプラットアンドホイットニー社製エンジンの影響を受けていた。

日米開戦直前まで米国から技術指導受ける

 ゼロ戦のエンジンを製造していた中島飛行機多摩製作所では、昭和16(1941)年の秋までプラットアンドホイットニー社の技術者が技術指導をしていたという耳を疑う話を聞いたことがある。

 ゼロ戦で採用された国産独自技術として知られる超々ジュラルミン(ESD)は、米国が同等の「7075」の開発をするのに7年ほど先行していた。

 しかし、主翼の桁に限定された超々ジュラルミンよりも幅広く用いられた超ジュラルミン「2024(当時の呼称は24S)」は、米国のアルコア社で開発されたものだった。

 そして、ゼロ戦のプロぺラは、米国のハミルトンスタンダード社が開発したものを住友金属がライセンス生産していた。なお、戦前、戦中にプロペラを製造していた住友金属の航空機部門は戦後になって住友精密工業として独立している。

 同社は現在でも航空機の脚やジェットエンジンのオイルクーラー用熱交換器を製造し、海外の航空サプライヤーと対等に戦える航空部品メーカーとして知られる。