関孝和『発微算法』の衝撃

前回は江戸の数学は遺題継承によって発展したことを紹介しました。関孝和の名を全国に轟かせることになったのが、『古今算法記』(沢口一之著)の遺題を解いてみせたことでした。

 沢口一之は天元術(1変数方程式の解法)では解くことができない多変数方程式の問題を『古今算法記』の中で遺題として発表しました。

 関孝和は「傍書法」と呼ばれる多変数方程式の解法を考案し、沢口の挑戦を迎え撃ちます。1674年、関による『発微算法』は全国の和算家に衝撃を与えました。

 関の解法がすんなりと一般に理解されることはありませんでした。記述の難しさが和算家たちの標的の的になります。

 1681年、佐治一平は弟子松田正則とともに『算法入門』を著し、関の『発微算法』を攻撃します。

 『算法入門』自体、池田昌意『数学乗除往来』(1674年)の遺題を解いた書物でしたが、同時に関の『発微算法』は間違いであると指摘したのです。

 関自身はそのような攻撃に対して相手をしませんでした。そのままでは傍書法が一般に理解され普及しないことになってしまいます。

 そこに現れたのが1人の救世主。その人物のおかげで、傍書法は一般に理解され普及することなります。はたして、『発微算法』が正しいことも明らかにされました。

建部兄弟の入門

 関孝和は独立独歩の天才がゆえに、広く理解されることが難しかったと言えます。天才を理解するには別の天才が必要だということです。

 建部賢弘(たけべかたひろ)の登場です。関が1642年頃の生まれ、建部賢弘は1664年の生まれ、22歳離れた2人が江戸の数学を極めていくことになります。

 12歳の建部賢弘(1664-1739)は16歳の兄賢明(かたあきら、1661-1716)とともに関に入門します。

 めきめきと才能を磨いていき、次第に天才の片鱗を見せていく賢弘。関の数学を理解し、すでに相当な実力を身につけていた賢弘は池田昌意の『数学乗除往来』の遺題を解き、さらに佐治一平の『算法入門』の誤りを見つけることができました。

 それらの結果を著したのが1683年の『研幾算法』です。時に、賢弘19歳。