衆議院本会議、安保法案を可決 国民に怒り広がる

AFPBB News〕東京の国会議事堂前で、衆議院平和安全法制特別委員会が可決した安全保障関連法案に抗議するデモに参加した市民団体のメンバー(2015年7月15日撮影)。(c)AFP/Yoshikazu TSUNO

 安保法制をめぐる国会の中央公聴会で、大学4年生の奥田愛基氏が堂々とした意見を述べた。彼の意見には、安保法制への賛否の立場を超えて、耳を傾けるべきだ。彼は一個人として、自分の頭で考え抜いて、自分の言葉で主張した。さらに、彼と同様に自分で考え、自分の言葉で語る若者が全国で行動を始めた。これまで、日本の政治的舞台において、個人に基礎をおくリベラルな主張がこれだけの力を持ったことはなかった。しかし一方で、議論は依然としてかみあっていない。なぜ議論はかみあわないのか、どうすればこの対立を克服できるかについて考えてみたい。

日本に存在しなかった本当の「リベラル」政党

 欧米社会には、リベラルと保守の二大潮流がある。このうちリベラルは、個人の自由を重視し、国家は原則としてこれを制限してはならないと考える。これに対して保守は、国家があってこそ個人も守られると考える。もちろん個人の自由は尊重するが、国家の利益のための義務を果たすことを重視する。日本における自由民主党の立場は、保守主義である。一方、戦後の日本において自由民主党と議席を争ってきた革新政党もまた、かなり強い集団主義的な立場にあった。

 そもそも日本は非常に同調圧力が強い社会だ。「郷に入れば郷に従え」「出る釘は打たれる」など、社会的同調を求める言葉はあっても、個人が自由にふるまうことを讃える標語は聞かれない。この社会的特徴を背景として、これまでの日本の政治において、自由な個人に基礎をおくリベラルな政党は存在しなかったと言える。

 この日本の政治史を考えれば、SEALDs(シールズ:Students Emergency Action for Liberal Democracy - s)の登場は大きな事件だ。私は8月30日の国会前行動を契機に彼らの活動に興味を持ち、彼らの主張に耳を傾けてみた。その結果、よく分かった。彼らは一人ひとりが自由な個人として考え、討論し、活動している。彼らは個人の自由を制約する党派に所属するつもりはないし、党派を作るつもりもない。しかし、自由な個人でありながらも全国に支持をひろげ、100万人規模で市民を動かすことに成功した。このスタイルは、日本の政治史においてまったく新しいものだ。