テニアン島から飛び立ったB29爆撃機エノラ・ゲイが広島に原爆を投下してから69年の歳月が流れた。7月28日にはエノラ・ゲイ最後の存命乗組員も他界、この日のことが世の記憶から薄れていくのが気にかかる。
いまなお原爆投下を正当化する米国
原爆の使用は、さらなる犠牲者数を最小限にとどめるための必要手段だった、との主張は今なお米国民の間で根強い。
しかし、開発プロジェクト「マンハッタン計画」に関与した者でさえ、皆そのように考えていたわけではなかったことを、心に留めておく必要があるだろう。
計画の1つの拠点、シカゴ大学の科学者たちから出された「フランクレポート」には、まずは他国の代表に無人の砂漠などでデモンストレーションすべし、との主張もあったのである。
しかし、提案は拒絶され、投下へと向かう様子は映画『シャドー・メーカーズ』(1989/日本劇場未公開)にも描かれている。
そんな人物として映画にも登場するレオ・シラードとともに、特異な立場の科学者だからこそ知りえた重大事への責任感からなされた提言であるこのレポートを書き上げたのが、ユージン・ラビノウィッチ。
その信念は、戦後、編集主幹となった「Bulletin of the Atomic Scientists」に受け継がれ、科学者として「核の時代」の政治問題に発言していくことになる。
その象徴とも言えるのが、人類滅亡の時を真夜中24時に見立て、残り時間を示した「世界終末時計(Doomsday Clock)」。1947年、時計はまず7分前にセットされた。
いくら機密を保持しようとしても自国の優位はいつまでも続かないとの「フランクレポート」の指摘は4年で現実のものとなり、1949年8月、セミパラチンスク核実験場(現カザフスタン領)でソ連が核実験に成功した。
それならばと1952年11月には米国は初の水爆実験を成功させるが、ソ連も追随。過熱する核兵器開発競争の現実に、53年、終末時計は2分前まで進んだ。
そんな米国の実験の場となったマーシャル諸島ビキニ環礁の島々から飛び立つ鳥の大群の姿を映し出すのが、名曲「モア」のメロディも美しい『世界残酷物語』(1962)。そこには汚染され孵化できない卵が残る残酷な現実が示されている。